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2010年6月13日 主日礼拝説教
「神と共に生きる者」(マタイの福音書5章21節〜26節)
イエス様は、律法は廃棄されるものでないことを教えられ、最後に「律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」とおっしゃいました。
律法学者やパリサイ人であっても、神様の目から見るならば、律法を守ることができていませんでした。彼らが自分の力で律法を守り、天の御国に入ろうとしても入れなかったのでした。
天の御国に入ることができたのは、神様の律法を完全に守り、成就されたイエス様だけでした。イエス様だけが「律法学者やパリサイ人の義にまさる」お方でした。そのイエス様の義を私たちが受け取ることができる道、それがイエス様の十字架、私たちの罪のために死んでくださった十字架でした。私たちが罪を悲しみ、悔い改め、そしてイエス様の十字架による救いを信じるところからクリスチャン生活はスタートするのです。
私たちはまだ罪ある者なので、神様のみこころに添った生活を行うことができませんが、少しずつ少しずつ、それを目指して歩んでいます。その生活の具体的指針が今日からのところに示されます。
21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
これは十戒の6番目の戒めです。後半の「人を殺す者はさばきを受けなければならない」は、聖書には直接ないので、ユダヤの言い伝えであったと思われます。こう付け加えることによって、彼らはこの律法を、実際に人を殺した時だけに限定してしまったのでした。しかし、自分は人を殺したことがないと思っていたほとんどの人たちにとって、次のことばは衝撃的であったでしょう。
22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
イエス様は「人を殺してはならない」をもっと広くとらえました。それが戒めの真理、神様のみこころでした。それは、心にひそむ怒りも、この律法に照らせば殺人と同じと言うのです。実際の殺人は、法律に従って裁判で判定が下されるでしょう。しかし心の殺人は、神様がさばかれるのです。
「腹を立てる者」「能なし」「ばか者」と言う者は、それぞれ、「さばきを受ける」は地方裁判所、「最高議会」はエルサレムの最高裁判所、「燃えるゲヘナ」みなげこまれます。「ゲヘナ」とは「神様のさばきによって罪人が入れられる苦しみの場所」であり、そこに投げ込まれるとは、神様による永遠のさばきにあうことを言っています。
このようにイエス様は、だんだんと厳しいさばきを語ることによって、怒りも人を殺したと同じ厳しいさばきにあうことを語りました。それは誰もが日常で行っていることです。それを神様は見逃さず、さばきに値するとおっしゃるのです。
怒りやことばの暴力は、それが積もり積もって実際の殺人にいたっていること、直接手を下さなくても、その人を自殺に追い込んでしまったことなど、それは現在も多く見られることです。
私たちは、自分の怒りを見た時に、自分の中にある罪を覚えます。そして同時に、このような者を愛し、赦してくださったイエス様を覚える時となるのです。
23だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
自分が「兄弟に恨まれていることを」思い出した場合、相手がどう思っているかわかった場合についてです。
自分に非があることに気づいたならば、悔い改め、行ってお詫びし、仲直りをすることができるでしょう。しかし、ここは相手に非がある場合、自分は悪くないと思われるようなことでも、その兄弟と仲直りをし、あなたの責任を果たしなさいというのです。
イエス様は兄弟を赦すことの大切さをお話しなさいました。
マタイの福音書18:21−22「21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」
ローマ人への手紙12:18「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき」に和解しなさいと命じられました。相手が自分に恨みを持っていることに気づいたら、祭壇への供え物をそこに置き、まずその兄弟のところに行って仲直りし、そして神様の前に出なさいと言うのです。
それほど、和解することは大切なこと、また同時にそれほど礼拝の場に出ることは大切なことと言っているのです。ユダヤの人たちは、しばしば形だけの礼拝を預言者に指摘されました。
ホセア書6:6「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」
またその和解は、大切であると同時に、今すぐしなさいという緊急性をも語っています。その例として、自分が告訴されている場合を述べます。
25あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。26まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
裁判所に行く途中、和解しなさい、すぐにでも仲直りして、告訴を取り下げてもらうようにしなさいというのです。この場合は、明らかに自分のほうに罪があるから訴えられたのでしょう。和解しないと有罪とされ、牢屋に入れられてしまいます。さらに、賠償金の「最後の一コドラント」を支払うまで牢から出られなくなります。罪の責任は、わずかな金額を支払い終わるまで問われるのです。「一コドラント」とは、1デナリ(1日の賃金)の64分の1、現代の感覚として100円玉1個くらいに当たります。
ここは、すでに有罪となることが決まっている者がもうどうすることもできず、和解するしか道はない、相手に赦してもらうしか方法がない切羽詰まった状態を表しています。
それは、私たちが神様とさばきの場に向かって歩んでいる姿と同じです。だれにでも「腹を立て」、「能なし、ばか者」と言ってしまう私たち。なかなか「仲直り」できない私たち。「人を殺してはならない」という戒めを破ってきた私たちです。
そのような私たちを赦し、裁判所に行き、有罪とされ「牢に入れられること」がないように、最後のさばきである死後の「燃えるゲヘナ」に投げ込まれなくてもいいように神様がしてくださいました。しかも、神様のほうから和解の手を差し伸べてくださり、イエス様がそのために、私たちの代わりに十字架で刑罰を受けてくださいました。
それは、私たちが罪人であったとき、弱かった時、イエス様はしてくださいました。
ローマ人への手紙5:8−11「8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
きょうも私たちは、神様が私たちを愛してくださり、私たちと和解してくださり、私たちを神様と共に生きる者としてくださった。そのことを感謝して、この週も歩み出したいと思います。
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