ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年6月20日


2010年6月20日 主日礼拝説教
「心を見られる神」(マタイの福音書5章27節〜32節)

■はじめに

 イエス様が「律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」とおっしゃった義について、また律法の意味をイエス様が解き明かした個所を読み始めました。
 天の御国に入ることを約束された者たちにとって、どういう歩みが神様のみこころにかなっているのか。それは当時のユダヤ人が、律法を守っていると言っていたこととは大きくかけ離れていました。
 前回は「殺してはならない」を取り上げました。今日は2つ目、「姦淫」と「離婚」についてです。

■姦淫してはならない

27『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 これは十戒の7つ目の戒めであり、結婚している者が配偶者以外の者と性的な関係を持つことを禁じた律法です。男性についていえば、他人の妻と関係を結んではならない。それは姦淫の罪であり、その場合は双方とも死刑にされました。

レビ記20:10「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」

 しかし、既婚の男性が独身の女性や遊女、奴隷、異邦人と関係した場合は、姦淫とはなりませんでした。問題とされたのは、ユダヤ人の夫に対して不貞があるかどうかでした。既婚男性は、ユダヤ人の夫の妻以外と関係しても問題にされなかったのでした。
 一方既婚の女性は、いかなる場合でも姦淫の罪とされました。

■情欲をいだいて女を見る

 このような考えであった「姦淫してはならない」に、イエス様はさらに厳しい高い基準を示されました。

28しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 私たちが、「姦淫してはならない」という罪を犯していないかどうか問われたら、このイエス様のことばを聞いた時にそうではないことに気づかされます。現代は「姦淫」がそれほど問題ではなくなっています。男女間の問題は「不倫」と軽く言われ、インターネット上では性の情報があふれています。そのようなことに対して、聖書は「姦淫してはならない」ということばで戒められるのです。それは、神様は性的不道徳を嫌われるからです。
 姦淫は相手を「情欲をいだいて見る」心から始まります。「殺してはならない」も、心に怒り、軽蔑の思いを抱いたことが、その罪に当たりました。
 イエス様は「女を見る者」とおっしゃいましたが、男性を代表として語っただけで、それは女性も同じです。「情欲をいだいて」とは、性的に相手を自分のものにしたい思うことです。またそのような夢、あこがれを抱くことです。このように姦淫とは、実際にそれを行ったかどうかではなく、心の中に起こった思いをも含んでいると言われたのでした。
 律法学者、パリサイ人はここまでは問題にしていませんでした。姦淫の場で捕まった女がイエス様の前に連れてこられたことがありました。彼らが、「この女は姦淫の罪を犯しました。どうしましょうか」とイエス様に迫りました。

ヨハネの福音書8:7「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」」

 人々はイエス様にそう言われて、自分たちの心にある罪を指摘され、誰一人、女に石を投げつけることができなかったのでした。

■つまずかせるものを切って捨てなさい

 罪を犯してしまったと気づいたらどうしたらよいかが語られます。

29もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

 イエス様は「右の目」でも「右の手」でも、それが罪を犯させるなら切って捨てなさいと命じられました。教会の歴史で、実際にそのように行った人がいたことが伝わっていますが、これは文字どおり行うように要求しているのではありません。イエス様は、そのような決断が必要である。しかも自分でそれをしなければならないと言われます。そうでなければ「からだ全体ゲヘナに投げ込まれる」、罪を犯した者はさばきにあうことを指摘されました。
 このように罪を犯すもの、つまずきとなるものを取り除きなさい。それはどのような小さいものであっても、誘惑の種はたいしたことはないと思っても、断固として取りのけなさいというのです。

■聖霊に満たされて

 このような厳しい教えを聞く時に、私たちは、それができない自分の心の汚れを示されます。そのとき、このような者を赦してくださったイエス様、私たちの代わりに十字架で罪の罰を受けてくださったイエス様の救いを覚えます。
 私たちは、日々の歩みにおいて、聖霊の助けをいただくほかありません。聖霊に満たされて、神様のみこころに添った、きよい歩みができるように祈りたいと思います。

ガラテヤ人への手紙5:16、24−25「16御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。…24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。25もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

■離婚してはならない

 姦淫について関連して離婚について語ります。

31また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。

 これは申命記24章1節のことばです。「離婚状を与える」ことは、夫の気まぐれによって離婚させられてしまう女性を守るため、簡単には離婚できないために決められました。それがいつしか、離婚状を出せば離婚できるということで、条件次第でより離婚しやすくなっていったのでした。妻が言うことを聞かない。料理がまずいから離婚できると考えた律法学者もいました。
 このような議論のあった問題に、イエス様は「姦淫してはならない」から答えを与えたのでした。

32しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。

 結婚は神様の意思によって導かれ行われたものであるから、離婚してはならないというのが神様の教えでした。しかし人間の罪ゆえに離婚を許されたのでした。イエス様がここで言われていることは、離婚は「妻に姦淫を犯させる」ことになる。あるいは夫に姦淫を犯させることになるというのです。そのゆえに離婚を禁止されたのでした。

■神様の愛

 しかし神様のみこころは、その不貞の罪をも赦すというものでした。神様は、結婚を神様とイスラエルの契約になぞらえました。その神様とイスラエルの結婚の契約を破ったのはイスラエルでした。イスラエルは神様を忘れ、ほかの神に心を移すという淫行の罪を犯しました。

エレミヤ書3:6−7「6あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行った。7わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。」

 それでも神様はイスラエルの不貞を赦し、悔い改めてわたしのところに帰ってきなさいと呼びかけました。

エレミヤ書3:12−14「12背信の女イスラエル。帰れ。わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。わたしは、いつまでも怒ってはいない。13ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。14背信の子らよ。帰れ。わたしが、あなたがたの夫になるからだ。」

 「わたしは恵み深いから。わたしは、いつまでも怒ってはいない。」これが、神様の私たち人間に対する愛でした。その愛が、神のひとり子イエス様を地上に送り、私たちの救い主として十字架にかかってくださったことに示されました。そして私たちの罪を、パリサイ人にまさる義でおおってくださったのでした。
 今日も、私たちを愛し、私たちを罪から救い出し、荒野を旅するかのような私たちの歩みを聖霊に導かれ、助けられて進みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年6月20日