ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年6月20日
2010年6月27日 主日礼拝説教
「真実を行われる神」(マタイの福音書5章33節〜37節)
イエス様は、天の御国に入る民は律法をどのように考えたらよいか、どのような歩みが神様のみこころにかなっているのかを話されました。これまで「殺人」「姦淫」「離婚」について見てきました。
33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
これは、十戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という第3の戒めと、第9の戒め「隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」に関係することでした。これは、そのまま記している旧約聖書の箇所はありませんので、いくつかの教えを要約したものです。
レビ記19:12「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。」
申命記23:21「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」
誓いとは、ことばを発する時にそれが真実であることを表すために、それをあるものにかけて行うものです。また誓願とは、神様が自分の願いを聞き届けてくださった時にあることをする、またはささげ物をすると約束することです。
私たちクリスチャンは、神様に約束するということで、誓約を式の中でしばしば行います。
洗礼を受ける時、転入会する時、「あなたは、神の栄光を現すために、最善を尽くして、教会の礼拝を守り、奉仕し、教会を維持することを約束しますか」。
教会の牧師になる時、「みことばの奉仕者としてふさわしい言行を示し、この教会の牧師として人々を愛し、この務めを果たしていくことを約束しますか」。
また結婚式の時にも、「健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり堅く節操をまもることを約束しますか」。
このように「誓い」とは、自分のことばや行動が真実であることを聞いている相手にわかってもらうためにする行為です。そのために証人が立てられます。もしそれを破ったら、その誓いが確かに真実であると保証した証人にさばきを任せることになります。神様の前で誓うとは、それを破った時に神様からのどのような刑罰を受けてもかまわないということです。
日本では、神様の前で誓うという習慣があまりありません。しかし唯一の神様を信じていたイスラエルでは、誓いはさばき主なる神様を誓いのたびに思い出し、神様が確かにおられ、真実を行われるお方であることを覚える時であったのでした。
申命記に「あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである」とありました。そんな大変なことなら誓いは慎重にしましょうということになるでしょう。ところが、そのように律法学者は考えませんでした。それでいろいろ方法を考え出しました。神の名によって誓った時、それは必ず果たさなければならなかったし、できなかった時の刑罰が恐ろしかったので、神様以外の天、地、エルサレム、自分の頭などを指して誓うようになりました。それが次のことばに出てくるものです。
34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。35地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。36あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
イエス様は、「決して誓ってはいけません」とおっしゃいました。それなら、私たちが教会で誓約をしていることはどうなのかが問題になります。
パウロも誓いをしました。
コリント人への手紙第2、1:23「私はこのいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたに対する思いやりのためです。」
神様ご自身も誓いをなさいました。
ヘブル人への手紙6:13−14「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」」
イエス様はなぜ「誓うこと」を禁じられたのでしょうか。それは、当時の律法学者やパリサイ人たちが誓いを乱用し、敬虔であるべき誓いが偽りの誓いに陥っていたからでした。それが、神様の代わりに、天や地、エルサレム、頭を指すようになった理由でした。
さらに誓いに段階を設けました。絶対に守らなければならいものと、そうでないものの区別をつけました。
マタイの福音書23:16「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』」
神殿に誓ったのであれば守らなくてよい。神殿の黄金を指して誓った場合は守らなければならない。それは黄金のほうが大切であったからでした。このように、誓いを変えていったのでした。
イエス様が「決して誓ってはいけません」とおっしゃったのは、このような天や地、エルサレムを指して誓っていた誓いでした。そのような誓いなら誓うな、とおっしゃったのでした。それは、天、地、エルサレム、頭、それらも神様のものです。イエス様は、何を指して誓おうが、自ら語ったことは、誓う、誓わないに関係なく誠実に果たさなければならないことを教えられました。
37だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
イエス様は、自分のことばに責任をもって、神様に誓約をする重みをもって、個々のことばを誠実に真実に語るように教えられました。
後にイエス様の兄弟、弟であったヤコブがこのように書きました。
ヤコブの手紙5:12「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。」
ユダヤ教からクリスチャンになった人たちが、古い習慣としての誓いを行っていたことがわかります。
私たちが「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」とすべてのことばに責任を持つなら、誓うことなど必要がなくなるでしょう。このように言われています。
エペソ人への手紙4:15,25「15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。…25ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」
私たちは、このようにことばに対して不誠実であることを思わされますが、また真実を話そうとしても、それができない私たちを見るのです。
ことばがすべて真実になったのが、旧約聖書を成就されたイエス様でした。
コリント人への手紙第2、1:19−20「私たちが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。」
神様の約束は、すべて「しかり」(「はい」と同じ原語です)となりました。イエス様は何が正しいか、真実を語るとはどういうことかを示されました。そして、神様が私たちに約束されたことはすべてイエス様によって果たされました。
そして、神様の約束のとおり、身代わりの十字架の死をとおして、私たちの救い主となってくださいました。それは、神の子イエス様以外にはなしえないことでした。
偽りの誓いに満ちていた社会に、みことばの真実とともに、「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」の生涯を貫いてくださいました。そしてさらに、イエス様のことばと行為が真実であったことを、イエス様のよみがえりによって私たちに保証してくださったのでした。
イエス様による救いを信じた私たち、神の子とされた私たち。今日も私たちは、このイエス様によって救われ、日々、喜びと感謝をもって歩みたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年6月20日