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2010年7月4日 主日礼拝説教
「愛によって生かされる歩み」(マタイの福音書5章38節〜42節)
イエス様が20節で「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」と言われた義について、「殺人」「姦淫」「離婚」「誓い」から見てきました。今回は報復についてです。
日本では、復讐を美徳と考えていた時代がありました。仇打ちが成し遂げられたなら、大きな名誉を与えられました。それに比べるならば、今日の個所は驚くようなことばです。また39節の「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」は、一般の人たちから非暴力、無抵抗主義を表すことばとして知られており、また「悪い者に手向かってはいけません」も、ロシアのトルストイが、このことばから警察・裁判所のない理想社会を自分の領地で実現しようとして失敗したことで知られています。はたして、イエス様は何を言おうとされたのか、それをご一緒に考えていきましょう。
38『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
これは旧約聖書の律法として出てくることばです。
レビ記24:20「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」
これは、相手に傷つけられたら、それと同程度の報復をしてもよいという教えですが、またそれ以上はいけないという教えです。「仕返しをしてもよい」が第一ではなく、憎しみの余りそれ以上の仕返しをしてはならないということに重点があります。
このことばは古代中近東社会でも見られるもので、ハンムラビ法典にも出ています。しかし、その適用は階級によって報復が違ってきます。下の階級には重い報復が許されており、また文字通りそれが行われたと言われています。
聖書の律法では、お金で弁償する方法も規定され、たとい異邦人から受けた被害であっても、同じ律法が適用されました。それらは、神の前ではみな平等にさばかれなければならないこと、上の者、強い者が得をし、個人的な感情に走って、リンチを加えることを禁じたからでした。
そのような律法であったわけですが、イエス様はさらに個々人が持つ恨みの心を問題にされ、それを4つの具体例で示されました。
39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
イエス様は、このような報復の権利が認められている律法に対して、「悪い者に手向かってはいけません」と言って、自分に向かって悪をなそうとする者に報復してはならない、と教えられました。
「右の頬を打つ」とは、右手で相手の右の頬を打つ場合、手のひらでなく甲でたたくことになります。甲で打たれることは侮辱を表していました。甲で打って、次に平手で左頬を打ってくるでしょう。その時に、その左頬を向けなさいというのです。
イエス様は、裁判の途中、答え方が悪いと言われて平手でたたかれたことがありました。それに対して抗議をなさいました。
ヨハネの福音書18:22−23「22イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。23イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」」
イエス様は個人的な恨みに対して、同じような思いで復讐してはならないと教えられたのですが、このような公の不正に対してはそれを禁じてはいないことがわかります。
しかし、イエス様は裁判で「死刑」と宣告され、その後に平手で打たれるという経験をなさいました。
マタイの福音書26:67−68「67そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、68こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」」
この時は、イエス様は打たれるままになっておられました。それは、イエス様はそのような姿で十字架の道を歩むことが預言されていて、それに身をゆだねられたのでした。
イザヤ書53:7「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
次に「左の頬も向ける」だけでなく、もっと積極的に、相手の求めに応じるように語ります。
40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
下着とは今でいえば普通の服、上着とはオーバーのように足までかかるもので、上着は寒さをしのげるものとして、夜具の代わりに用いられました。ですから、これがなくなると命が危うくなるかもしれないものでした。
出エジプト記22:26−27「26もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。27なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。彼はほかに何を着て寝ることができよう。」
このように上着までは渡さなくてもいいという権利があるにもかかわらず、下着を借金のかたか何かで求められたら、上着さえも与えなさいと言われたのです。
もはやだれもできないこと、そこまでしなくてもいいことまでイエス様は要求なさったのでした。
41あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
3つ目です。これは不当な仕事を課された時です。「強いる」とは、強制労働をさせる時に使うことばです。
当時ローマ兵による荷物運びの徴用がありました。もし、だれかから圧力を受けて、強制的にさせられるようなことがあっても喜んでそれをしなさい。不当だと抗議するのではなく、その倍のことをしてあげなさいというのです。
42求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
最後はお金や品物の貸し借りのことです。律法では、貧しい人に貸す場合、利息を取ってはならないと教えられています。
出エジプト記22:25「わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない。」
イエス様の教えられたことは、これ以上のことをするように、でした。貧しい人が求めたら与え、返すことが困難な状況にある人にも貸すようにというのです
イエス様は、ここで4つの例を通して、個人的に報復をする生き方ではなく、個人が持っている権利を主張するのではなく、さらに個人的な欲、自分さえよければという考えを持つことを戒められました。私たちはいかに私たちの所有欲が強いか、労を惜しむ自己本位の人間であるかが思わされます。
イエス様は、ここで天の御国の民の生き方の原則を教えられました。それは、愛をもって与える生き方です。イエス様はそのような生き方を語るだけではなく、そのような道を歩まれました。
ペテロの手紙第1、2:22−23「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
イエス様こそ、十字架への道を歩む生涯を通して、愛によって悪に打ち勝つ生き方を示してくださり、十字架で、私たちの心に潜む罪を赦すために、その罪の代わりに死んでくださいました。
イエス様だけが、右の頬を打たれた時に左の頬を出すことがおできになるお方でした。イエス様だけが、下着を求められた時に上着をも与えることができたのでした。イエス様だけが、1ミリオン行けと言われた時に2ミリオン行くことができるお方でした。イエス様だけが、求める者にはすべてを、いのちさえ与えることができるお方であったのでした。
私たちも、イエス様の愛によって生かされ、そのように生きるように導かれていることを感謝して歩みたいと思います。
ローマ人への手紙12:19−21「19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
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