ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年7月18日


2010年7月18日 主日礼拝説教
「敵を愛される神」(マタイの福音書5章42節〜48節)

■はじめに

 20節の「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」と言われたその義について、「怒りについて」「姦淫について」「離婚について」「誓いについて」「復讐について」の5つを見てきました。今回は6つ目「敵を愛することについて」です。

■自分の隣人を愛せよ

43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 これは当時のユダヤ人たちだれもが持っていた考えであり、生き方でした。「隣人を愛するように」はレビ記にあります。

レビ記19:18「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」

 「自分の敵を憎め」ということばは聖書には出てきませんが、ユダヤ人たちは「自分の隣人を愛しなさい」の隣人を自国の人たちとし、他国人である「自分の敵を憎め」を付け加えていたのです。
 隣人、それは愛するに値する人です。憎むようにと言われた敵、それは、私たちの生命をも脅かすかもしれない人です。しかもその敵は、神様を信じない民でした。

44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 イエス様は、その敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ、と言うのです。イエス様は、同国人と異邦人の差別なく愛するように言われました。どんな人でも、敵の滅びることを願うものです。それをイエス様は、そのような人のために愛を注ぎ、祈るように勧められました。
 私たちは、隣人だけを愛する者です。まして相手が敵意をもって、ののしり、害を加えようとしている場合、どうして愛し、祈ることができるでしょうか。それは、イエス様が十字架で身をもって教えてくださった愛でした。

ルカの福音書23:34「イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」」

 自分を殺そうとしている敵を愛されたイエス様。その愛を人々に注ぐように教えられたのです。

ヨハネの手紙第1、4:19−20「19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」

■すべての人を愛される神

45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 これは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことが条件で父なる神の子どもになれるというのではなく、神の子どもとなった者は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことができるようになると言っているのです。
 「敵を愛すること」はできないことです。私たちはそのような状況に対して無力な者です。しかし、もしその人が滅んでしまうかもしれないひとりであり、そのためにイエス様の救いを必要としていることがわかり、祈ることができたら、また、もしそれができて、私たちがそのように変えられていったとすれば、それは私たちが神の国の民として生かされている、神の子どもとされている目に見えるしるしとして覚えることができるのです。
 「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」このように相手を選ばないで、私たちひとりひとりを愛してくださったお方が神様でした。
 神様が、神様のかけがえのないひとり子のイエス様をこの世に遣わし、私たちの罪のために代わりに十字架にかかってくださいました。このように神様の愛は人を選びませんでした。

ローマ人への手紙5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 このような愛によって、私たちは「自分の隣人を愛し、敵を憎む」者でありましたが、救われました。
 天の父なる神様は、「悪い人にも良い人にも」同じように「太陽を上らせ」、「雨を降らせてくださる」お方です。このような考えは、ユダヤ人には思いもよりませんでした。彼らは、自分たちこそ神の民、約束の民であり、神から特別に愛されていると思っていたからでした。

■取税人、異邦人も

46自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

 ユダヤ人たちが行ってきたこと、ユダヤ人社会で当然のように教えられてきた「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」は、ユダヤ人たちが軽蔑し、憎む対象としてきた「取税人」「異邦人」がしていることと何ら変わりませんでした。
 取税人は、ローマの手先され、請け負った以上の税をユダヤ人から取り立て、私腹を肥やしていた人たちです。そのようなお金のために自分のことだけを考えているような取税人であっても、自分を愛してくれる者には愛することができるのです。また、まことの神様を知らない異邦人であっても、仲間には挨拶するのです。
 そのように隣人を愛することは、だれもがしていることでした。天の御国の民はもっと高いレベルを目指すべきであり、それが律法学者、パリサイ人にまさる義なのです。

■完全でありなさい

48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 21節から始まった論議の締めくくりです。神の国の民は、神様が持っておられる「完全なもの」を反映して歩むようにというのです。しかし、私たちはそれができない者であることを、6つの律法の解釈を通して見させられてきました。
 だれが兄弟に向かって腹を立てないでいられるでしょうか。だれが、情欲をいだいて女を見ないでいられましょうか。だれが、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と、自分のことばを真実になれるでしょうか。だれが、右の頬を打つような者には、左の頬を向けることができるでしょうか。だれが、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるでしょうか。
 そのようにおできになる方は、人となられた神の御子イエス様だけでした。それでも、私たちは、主イエス様に罪赦された者として、イエス様によって救い出された者として、そのように完全を目指して進むようにと言われているのです。
 「完全でありなさい」は未来命令形です。イエス様がおっしゃった未来の命令は、それはそのようになるという約束を示しています。
 それは、新しく生まれた者への約束です。それは、私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださり、よみがえられたイエス様が今もとりなしていてくださり、イエス様が約束してくださり、与えてくださった助け主・聖霊の働きがあるからです。
 私たちは、失敗や挫折を繰り返しながら、完全を目指して歩んでいくのです。そのような信仰生活を歩んでいきたいと思います。

ピリピ人への手紙3:12「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年7月18日