ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年7月25日


2010年7月25日 主日礼拝説教
「隠れた所で見ておられる神」(マタイの福音書6章1節〜4節)

■はじめに

 イエス様が「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(5:16)とおっしゃった良い行いとは、律法学者、パリサイ人にまさる義でなければならないということを、「人を殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽りの誓いを立ててはならない」など6つの律法を通して見てきました。そして5章の最後に、イエス様は「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と語られました。

■人前で善行を行わないように

1人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 6章から新しい段落に入ります。5章は対人関係の中でどう歩むか。そこに表される義でしたが、6章からは対神様に対してどう歩むかを教えます。対人関係における、「あなたがたの良い行い」とは、そのことによって神様の存在、神様の愛、神様から私たちが信仰をいただいて歩んでいる喜びを人々に知らせるものでした。
 これから語ろうとしている「施し」、5節からの「祈り」、16節からの「断食」は、私たちがどれだけ神様を愛し、どれだけ神様にささげ尽くしているかを示すものです。それをイエス様は、人に見せるのではなく、全く逆の「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」と言われます。イエス様は、「施し」「祈り」「断食」の3つのわざを、「隠れた所で見ておられるお方」がいらっしゃることと、そのお方が報いを与えてくださることを語ります。
 神様への感謝を表し、神様を愛し、その信仰を守るのに、何で人の目を意識する必要があるのでしょうか。むしろ、人の目を意識するのを捨てなさい。そうでないと、神様の前で覚えられるという最高の祝福を受けられなくなるのです。
 たくさんの施しをしている、祈っている、神様の前に断食している、信仰を磨き、節制をしていることが人に見せ、人に知られているならば、それは人からの報いをすでに受けているのであって、神様が天の御国で報いを与えようとしておられることから外されてしまうのです。
 「施し」「祈り」「断食」は、律法学者、パリサイ人が熱心に行っていました。彼らは、それを自分の敬虔さを誇るため、また人に見せるために行っていました。しかし、人はだれもが「人がどう見ているか」「自分のやっていることをだれかが見ていたら」と心の中で意識し、期待してしまいます。そうであるならば、すでに人から報いを期待し、受けているので、神様からの報いを受けられないのです。
 報いとは、人が生きた時に行った行為に対して神様が与えてくださるものです。私たちが、神様からの報いが与えられる。そのことを覚えて歩む。私たちがしたこと考えたことが、すべて神様に知られている。そう思った時に、私たちは人の目を気にしない歩みができ、人の称賛、悪口も気にならなくなるのではないでしょうか。

■施しと偽善者

2だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 「施し」は、貧しい人に施す善行、良い行いです。この貧しい人への援助は旧約聖書で教えられていました。

箴言19:17「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」

 それだから、ユダヤの会堂の前や、人々がたくさん通る町の出入り口には、施しを求める貧しい人たち、足が不自由な人、目が見えない人、寝たきりの人などがいたことが新約聖書に出ています。
 そのようなすばらしい教えを旧約聖書で知っていたユダヤ人でしたが、イエス様はその姿勢を問題にされました。「施し」が見栄や自分の名誉心から行われることが多かったのでした。
 施しを求める者が会堂や通りに集まったように、施しをする者も「会堂や通り」に来て、これ見よがしに行いました。ラッパを吹きならすように、だれの目にも明らかなように行っていたのでした。
 そのようなことをする者を、イエス様は「偽善者」としたのでした。偽善者とは演劇からきたことばで、演技をする者のことです。表向きの行為と、心が違う行為をしている者、それが偽善者でした。人を助ける施しであっても、自分が称賛されることが動機であったならば、それは偽善者の行いでした。

■隠れた行い

3あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

 施しは教会の働き、クリスチャンの良きわざの一つです。最初の教会でも、貧しい人を互いに助けることが実行されていました。

使徒の働き4:34−35「34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」

 「右の手のしていることを左の手に知られないようにする」とは、自分で善行をしていることを隠し、意識しないようにと言っているのです。私たちは主の前に立った時、主から報いをいただき時、「いつ私はそのようなことをしたでしょうか」と言えるような行い、それが「右の手のしていることを左の手に知られないようにする」行いです。

■隠れた所で見ておられるお方

4あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 神様は隠れた所で見ておられるお方です。だれも知られないでした善行に対して報いを与えてくださいます。

詩篇33:13−14「13主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。14御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。」

 人に見せようとする善行は神様に無視され、人に隠れていることは神様がご覧になるのです。「報いてくださいます」は未来形で、最後の審判の時、その人に与えられることを示しています。

エペソ人への手紙6:7−8「7人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。8良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。」

 たとい今は苦しみの中にあろうとも、すばらしい報いが用意されています。

ローマ人への手紙8:18「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」

 私たちの父は、愛する御子を私たちに惜しまずに施してくださいました。それは、私たちが感謝もせず、何もわからない時に、それを一方的に、私たちの罪を赦し、救い出してくださるためでした。そして、神様は私たちの父となってくださいました。
 その父が私たちのことを覚えていてくださるのです。そうであるならば、何も私たちのしていることを人の前に知らせる必要はありません。隠れた所にいてくださる神様が、それを見てくださり、報いを与えてくださるからです。

ヘブル人への手紙6:10「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年7月25日