ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年8月1日


2010年8月1日 主日礼拝説教
「祈りを聞かれる神」(マタイの福音書6章5節〜8節)

■はじめに

 6章からイエス様は、神様に対して行う宗教的善行について、それをどう行うかについて語り始めました。「施し」に続いて、今回は「祈り」についてです。

■偽善者の祈り

5また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 「施し」と同じように、祈りも「偽善者たちのようであってはいけません」と警告します。当時のユダヤ人は、決められた時間3度、朝9時、12時、午後3時に祈っていました。エルサレムでは、神殿でラッパが鳴り、どこにいても神殿に向かって祈ることが義務付けられていました
 一日のうちで決まった時間に祈ることは決して悪い習慣ではありません。ところが祈りの時間に近くなると、わざわざ人通りに出て祈る人がいたのでした。それが「通りの四つ角に立って祈る」ことでした。
 表面的にはとても熱心に祈っているような様子であっても、その心は神様に向いているのではなく、人間に向いていて、人の評価を気にしているのです。それは、やっていることと心が別々になっている。まさに偽善者、演技している者の姿でした。イエス様は、そのような人を「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好き」な人とおっしゃったのでした。
 ではどうしたらよいのでしょうか。イエス様は、「あなたがた」から6節では「あなたは」と語りかけます。

■奥まった部屋で

6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 演技者のような人々とは違って、わたしの弟子である「あなたは」と語りかけます。「あなたの」部屋、「あなたの」戸、「あなたの」父と、「あなた」が繰り返され、祈りがあなた自身のことであることが強調されています。このように個人的な祈りは、あなた個人と神様との一対一の関係の中で行われるものです。その祈りは、人からは全く知られませんが、隠れたところにおられる神様が見ておられるのです。
 「奥まった部屋」とは、当時のユダヤの家から食料を蓄えていた倉庫のような所と考えられます。そこは祈りのために用意された所ではありません。それほど、どこででも神様と二人になれる場所があるということを言っています。
 イエス様は山に登られたり、公園のような所に行って祈られました。そこが「戸をしめて」神様と二人きりになる神様と向き合う場所でした。
 そこでは無言の祈りのこともあるでしょう。「神様」と言って、あとが続かず、神様を深く瞑想するだけのこともあるでしょう。そのようなところから、知らずに神様への賛美と祈りが出てくるでしょう。目をつぶらなくても、歩きながらという祈りもあるでしょう。ほかのだれもが入ることのできない場所、思いが集中できるところ、それが密室です。そのようにして「隠れた所におられる」神様に向き合うのです。

■ことば数の多い祈り

7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。

 異邦人は異教徒を指していました。彼らは、ことばが多ければ熱心さの証しであり、それで祈りが聞かれると思っていました。同じことばをただ無意味に繰り返すのです。
 偶像の神バアルにささげた祈りです。バアルの預言者は、何回も何時間もむなしく叫び続けたのでした。

T列王記18:26「そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。」

 しかし、イエス様は長い祈りを否定されたわけではありません。イエス様は徹夜で祈られたこともありました。

ルカの福音書6:12「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」

 イエス様は同じことばを3度、ゲツセマネで祈られました。

マタイの福音書26:44「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。」

ルカの福音書22:44「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」

 イエス様がおっしゃった「ことば数が多い」祈りとは、これだけ祈ったのだから、何度も、毎日祈ったのだから神様は聞いてくださると、祈りの量、祈りの熱心さがすべてであると考えてしまう祈りです。

■必要なものを知っておられる

8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 異教徒は、ことば数が多ければ祈りが答えられると思っていました。そのようなまねをしてはならないのです。
 祈りは、神様の決定されていることを変更させるためにするものではありません。神様はどんな祈りも聞いていてくださいます。そして、必要なものを知っていて、あるいは必要でないものを知っていて、それを祈りの答えとして私たちに見せてくださるのです。すぐ与えられなくて、将来それをすばらしいタイミングで与えてくださるのです。

マタイの福音書6:31−32「31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 神様が祈る前から私たちに必要なものをご存じなのは、私たちは「父なる神」に祈っているからです。祈る時に、私たちは、罪深い者が神の子とされ、父の前に立っているということを忘れてはなりません。親となった者は、子どもに対して何をしてあげようか、子どもの願いにどう答えようか、最善は何かを考えて子どもに接します。
 それならば祈る必要がないのではないか、と言うでしょうか。祈りは、私たちが神様に信頼していることを示すことです。子どもが信頼して父に願い求めることを、父なる神様は喜ばれるのです。子どもは父との交わりを喜び、その中で成長するのです。
 祈りは、祈りの答えがあったことを、神様が確かに祈りにこたえてくださったことを、神様が生きておられることを体験できるすばらしい方法です。祈る人は、祈りの答えをいただき、神様の恵みを体験できるのです。
 神様は私たちの必要をすべてご存じなので、何も祈らなくてもすばらしいものを与えてくださるでしょう。祈らないで、いつも与えられているだけの信仰生活は霊的に成長することはありません。
 神様が与えようとしていることを、祈ることによって祈りの結果として私たちは受けることができるのです。それが祈りの恵みです。そのために神様は、いつも祈りなさいと、教えてくださったのでした。

テサロニケ人への手紙第1、5:16−18「16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

ヨハネの手紙第1、5:14−15「14何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。15私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」

 私たちは、これからも祈りの中に神様の恵みを覚えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年8月1日