ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年8月29日
2010年8月29日 主日礼拝説教
「御国が来ますように」(マタイの福音書6章10節〜11節)
10御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
御国とは神の国のことで、マタイの福音書では「天の御国」と言っています。これは2つのことを祈ります。
1つは、「イエス様が再臨なされ、神の国が完成されますように」という祈りです。イエス様はこの地上においでくださいました。まずバプテスマのヨハネがそのことを「神の国が近づいた」と伝えました。
マタイの福音書3:1−2「1そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。2「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」
ヨハネが捕らえられてから、イエス様はガリラヤに帰り、こう語りました。
マルコの福音書1:14−15「14ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」
イエス様は、神の国に入るには罪を悔い改めて福音を信じることが必要であると教えられました。弟子たちに神の国が近づいたことを宣べ伝えるように遣わされました。
マタイの福音書10:6−7「6イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」
イエス様は、神の国が来たことを「近づいた」と言われましたが、イエス様が来られたことによって、神の国が私たちの世界に実現したのでした。
ルカの福音書11:20「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」
ルカの福音書17:21「 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」
ですから、弟子たちは、イエス様の十字架と復活を見てから、神の国が来たこと、それはイエス様が来られたことによって始まったことを伝えました。神の国は、そのひな型として地上に教会が立てられ、そこで神様の福音が語られているのです。
しかし神の国は、イエス様の再臨によって完成されるのです。最初の教会のクリスチャンたちは、「主よ、来てください」と言って、イエス様の再臨、神の国を待ち望んでいたのでした。
コリント人への手紙第1、16:22「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」
ヨハネの黙示録22:20「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」
「御国が来ますように」のもう一つの意味は、神様の福音が広められることによって、いま始まっている「神の国」がさらに広がっていくようにという祈りです。神様を信じる人たちが増え広がっていく時に、地上に建てられた教会が祝福され、そこに集う人たちに神の国の喜びを、またひとりひとりが神の国で神様と共にある歩み、永遠のいのちに生きる喜びを味わうことができるのです。
みこころとは神様の心、神様のご意思のことです。御旨とも言います。地上のなされることすべての中に、神様のみこころが行われるようにと祈るのです。
「天で行われるように」と祈るように、神様のみこころが天では完全に行われているのです。
詩篇103:20−21「20主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行う力ある勇士たちよ。21主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行い、主に仕える者たちよ。」
天では、御使いや、死んで神様のもとに召された人たちが、今、完全に神様のみこころを行っているのです。それが「地でも行われますように」。
神様の御国で神様のみこころが完全に行われているように、この地上にも、まだ救われていないこの地上にも、神様のみこころがなるようにと祈るのです。
地上では、あらゆることが起こります。私たちの想像を越えるものも多くあります。それら地上で起こることすべてが、神様の望んでおられるとおりに運びますようにと祈るのです。
この地上は神様のご支配の中にあり、神様がすべてを導いておられます。しかし地上では、サタンの活動、人間の罪などによって、一時的にそれが妨げられることがあります。この世はサタンの活動が許されている領域だからです。ですから、そこに生きる私たちは、なおさら神様のみこころがこの地上に行われますようにと祈るのです。
サタンの力、罪がもたらすものを知っている私たちが「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈ることは、この世に起こっていることは、神様には意味があることであり、私たちはたといそれがわからなくても、私たちが神様のみこころを知り、それに従い、それを受け入れることができるようにと祈るのです。
私たちが、主の祈りによって、この地上で神のみこころを求めることは、私たちがみこころのために喜んで過ごすことができるようにという願いをも表明しているのです。
ペテロの手紙第1、4:2「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
次からは、私たちの毎日の必要を求める祈りになります。主の祈りの4つ目になります。ここから「私たちの」と祈ることによって、個人ではなく同じ神様を信じている兄弟姉妹がいて、その人たちと共に祈ることを意識することができるのです。
11私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちのために祈ること、それはまず私たちの必要を祈るのです。まず私たちの生活の糧を祈ります。それは、私たちが心と体を含めた全生活の中で生きていることを教えられます。許された命ある限り、毎日毎日、必要なだけの糧を与えてほしいので、それを与えてくださいと祈るのです。この祈りの答えとして、私たちは毎日の食べ物が与えられています。そして、私たちは食前の感謝の祈りをもっていただくのです。
それは食べ物にとどまりません。私たちの生活に必要なものすべて、私たちの時間、健康、生きていること、それらが神の御手にあることを覚えるのです。私たちは自分の力で、生きるためのすべてを得ているのではなく神様によって与えられていることを「主の祈り」を祈りながら認めているのです。
また「きょうもお与えください」と祈ることによって、毎日が自分の力で生きているのではなく、明日はわからない。ただ神様におまかせして生きますと告白しているのです。
「私たちの糧を」と祈る時に、それは私だけではなく、皆にお与えくださいと祈っているのです。自分だけが得て満足するようなものではない。兄弟姉妹皆が与えられなければならない。そのときに感謝をもって、私たちは食卓に着くことができるのです。
今は、世界で飢餓の中にある国や地域があります。そのことも「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈りながら覚えるのです。
箴言30:8「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」
私たちがこう祈ることができるのも、私たちにはイエス様の救い、永遠のいのちという十分なものが約束されているからです。私たちは救われた者として、本当に必要なものを知ることができた者として、私たちのいのちを全く神様にゆだねて歩んでいきたいと思うのです。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年8月29日