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2010年9月5日 主日礼拝説教
「私たちの負いめをお赦しください」(マタイの福音書6章12節〜15節)
今日は「主の祈り」の残り2つ、5つ目と6つ目の祈りを見ます。4つ目で「日ごとの糧を」と、まず私たちの体、日常に必要なことを祈り求めました。私たちは、神様から日ごとの糧をいただいているのですが、その私たちは、神のみこころを行って生きているのではなく、自分の思いのまま、自分の罪の中に生きているのです。ですから、この5つ目の祈りが必要なのです。
12私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちが持っている負いめとは、借金とも訳されることばです。私たちが神様に返すことにできない負い目、借金は神様に対して持っている罪です。それは、自分の力では返しきれない負い目です。
その借金を、イエス様はご自分のいのちという高価なものを、十字架の死を通して神様に支払ってくださいました。私たちは、キリストのいのちを神様の前に差し出せば、私たちの負いめ、罪を帳消しにされるのです。それがなければ、私たちは、いまだに神様に対して負いめを持ったままであり、神様の前に出ることができなかったのでした。
しかも、私たちの罪が十字架によって赦されたことは、神様の選びとあわれみによるのです。神様が私たちをそのような恵みの中に入れてくださったのでした。
ローマ人への手紙8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
罪がすでに赦されたことが確かなことであるのに、こうして繰り返し祈るのは、日ごとに犯す罪の赦しを祈っているのです。それと同時に、この祈りを通して、すでに罪が赦されたという喜びと確信を日々持ち続けるためにも祈るのです。
主の祈りは、「私たちに負いめのある人たちを赦しました」と付け加えられています。それは、私たちが人を赦すから私たちを赦してください、という条件の祈りではなく、私たちがイエス様に救い出されてからの歩みを告白しているのです。私たちは神様に赦されているので、「私たちに負いめのある人たち」を赦さなければなりません。
しかし、誰もがそのようなことはできない、赦すことができないのです。それが私たちの現実の姿です。それでも、あえてイエス様は、この「主の祈り」の中に、私たちは赦しましたという祈りをするように、そう祈り続けるように教えられました。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と祈るたびに、神様が主イエスを、十字架につけて、罪の赦しを果たしてくださったことを覚え、それと同時に、そのイエス様の愛を知っているからこそ、私たちもそのように敵対する者たちを赦します。もう赦しました。これからも、そのように赦し続けますと祈るのです。
そのことが、14、15節にもう一度出てきます。
14もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
私たちは、神様から赦された者として、人を赦すように求められています。そうできない私たちですが、神様はそのような者をも赦してくださいました。神様の恵みの大きさに感謝します。
最後の6つ目の祈りです。
13私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
このように祈るのは、人が罪や悪に対して弱い存在だからです。人は、自分の力や知恵ではこれら罪や悪に対して勝つことができません。
神様は、私たちの信仰に対して試みに会わせられます。旧約聖書のアブラハム、ヨブがそうでした。困難に出会っても、彼らは神様を忘れ、罪を犯しませんでした。そのようななかでも、神様を信頼し、神様がそのために救いの道を備えてくださるという信仰を貫いたのでした。
ヤコブの手紙1:12−14「12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
試み、試練、誘惑はギリシヤ語では同じことばで、文脈によって訳し分けられています。誘惑はサタンからのもので、罪を生み出し、試み、試練は神様からのものであり、信仰を磨き、成長させます。
主イエス様はサタンに誘惑されました。そのようにイエス様は誘惑を経験し、私たちの苦しみを知ってくださったので、私たちは私たちの弱さを知ってくださるお方に祈ることができるのです。
ヘブル人への手紙2:18「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」は、誘惑そのものに出会わないように祈るのであり、もし出会ってしまったら、それを引き起こしている悪(悪しき者、サタン)から救ってくださいと祈るのです。
私たちは救われた時、神様のご支配に移されました。だれもそこからはずされることはありません。
ヨハネの福音書10:28「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
しかし、悪しき者は、私たちを神様の望んでいるような歩みからはずさせようと狙っています。私たちは誘惑に弱い者です。自分の力では打ち勝つことができないので、神様により頼んでいくしかありません。ですから、主の祈りが必要まのです。
ヤコブの手紙4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
最後は頌栄で結ばれます。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」
この句は、古い写本には載せられていないので、「主の祈り」が教会で使われるようになってから、頌栄とアーメンを書き加えたと思われます。
国は、神様の支配される所、そして、そこにいる神の民が神様のものであることを、また神様に忠実であるようにと祈ります。力は神様の力がこの国に示されるように、そして、すべてのものが神様の前にひれ伏すことができるようにと祈ります。栄えは、神様の栄光です。御名があがめられ、御国が到来し、みこころが行われることによって、神様の栄光が現されるのです。
「アーメン」は、そうです、そうでありますようにという意味です。祈りは神様が聞いてくださることの表明です。
主の祈りは、神様のみわざが過去・現在・未来にわたって表明されている祈りです。このような「主の祈り」を私たちは日曜日の礼拝の時だけではなく、毎日いつでもどこででも祈りたいと思います。
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