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2010年9月19日 主日礼拝説教
「神が見ていてくださいます」(マタイの福音書6章16節〜18節)
マタイの福音書は6章から新しい段落に入り、2節からの「施し」、5節からの「祈り」について、これら神様に対して行うことは、人々にそれを見せないようにしなさいと語られました。
6:1「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」
それは、隠れた所におられるお方が見ているからでした。
6:4「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
6:6「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
2つ目の祈りについては、「主の祈り」の学びが入りましたが、今日は最後の断食についてです。
16断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
私たちにとって断食は、断食療法など病気を治すための断食をすることはあっても、宗教的な断食はあまりなじみがありません。断食について、それがどういうものか聖書から見てみましょう。
旧約聖書では、年に一度、贖罪の日に民族すべてが1年間の罪を覚えて、その日に断食するように命じられ、守られてきました。そのほか、罪の悔い改めやへりくだり、悲しみを現すものとして断食が行われました。このように断食は、神様に対する純粋な礼拝行為であったのでした。
ところが、この行為がだんだん増えていって、人に自分の神様への熱心さを表すものとなっていったのでした。イエス様の時代、熱心なパリサイ人は週に2回断食していました。
ルカの福音書18:11−12「11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」
イエス様は断食について非難されています。
マタイの福音書9:14「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」」
断食は悲しみの時、苦難の時を覚えて行うものでした。イエス様は、救いの教えを携えてこの世にやって来られました。それによって、私たちの罪が赦され、悲しみが喜びに変えられました。イエス様は、バプテスマのヨハネの弟子たちにこう答えられました。
マタイの福音書9:15「イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」
イエス様は十字架にかかり、死んでよみがえり、天に昇られました。それから始まった教会では、断食は本当に大切な時、神様のみこころを知ろうとする時に行われるようになりました。
使徒の働き13:2−3「2彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。3そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」
教会が初めて宣教師としてパウロとバルナバを派遣する時、断食をして祈ったのでした。
パウロたちの宣教によって教会が生まれ、生まれて間もない教会から去らなければならなくなった時、パウロたちは神様に教会をゆだね、また初めて長老を選び、彼らにクリスチャンとなった者たちを残していかなければなりませんでした。そのあとの苦難を思い、どうか神様お守りくださいと断食をし、祈ったのでした。
使徒の働14:22−23「22弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。23また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。」
断食は、教会の前進のため、新しい重大なことを始める時に行われました。今でも、神様にすべてをゆだね、神様の恵みにあずかるために、断食することが有益です。それも各自が、静かに行えばいいことです。断食はあくまでも自発的なものであり、神様がみこころを求める祈りです。
断食した者には、神様が祈りに答えてくださるということと、神様のみこころを知ることができるという大きな恵みを受け、新しい信仰の境地に入ることができるのです。
さて今日の箇所に戻り、断食はどのように行えばいいのでしょうか。イエス様は、偽善者たちは「やつれた顔つきをし」「断食していることが人に見えるように」行っていたと指摘されました。それは、人々からなんと熱心な、敬虔な人だろうと思われたかったからでした。
神様は、そのような断食に対して、その信仰を受け入れることもなく、神様からの報いを受けられないと言われました。イエス様は、もし断食をするならこうしなさいと言われました。
17しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
これは、やつれた格好を見せないように、身だしなみを整えるため頭に油を塗り、顔を洗うようにと命じたのです。普段通りの生活をし、断食をしていることを気づかれないようにしなさい。さもないと神様にささげるせっかくの行為が偽善という罪を犯すことになってしまうからでした。
18それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
人を意識するとき、神様のためになされるどのような行為、それは施し、祈りもそうでした。断食もその意味を失ってしまいます。ここから私たちは、周囲の目を意識しない生き方、まっすぐ神様を見つめていく生き方を教えられます。私たちは、いつも見ていてくださる神様を意識して歩めばいいのです。
歴代誌第2、16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
神様だけを見つめて生きる生き方。それは、人はどうあれ、神様は見ていてくださるということを知っている生き方です。私たちは、あの人はどうなのですかと神様に問うのではなく、あなたは私に従ってきなさいと神様に語りかけられています。これからも、私のためにいのちをささげてくださったイエス様を信じて歩んでいきたいと思います。
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