ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月3日


2010年10月3日 主日礼拝説教
「自分の宝は天にたくわえなさい」(マタイの福音書6章19節〜24節)

■はじめに

 イエス様は、6章に入り、施し、祈り、断食について、それぞれ「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」の原則のもと、人にではなく神様に対してしなさいとお話しなさいました。神様との関係は、人に見せるものではなく、神様の前に自分ひとりがそれぞれの信仰に基づいて行うものでした。
 さて、今日から新しい段階に入ります。19節からは、神様の民とされた者たちがどう歩んで行ったらよいかが語られます。その時にぶつかる2つの大きな問題、1つは「富について」、もう1つは25節からの「思い煩いについて」です。
 富について、3つのたとえをもって語られます。天に宝をたくわえること、目について、主人に仕えることです。

■天に宝をたくわえる

19自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

 これは現実の富や財産だけではなく、その人が持っている能力、大事にしているもの、自分が自慢できるもの、これだけは捨てられないもの、それらもここで言われている宝です。
 イエス様は、それら宝を「地上にたくわえるのはやめなさい」と言われました。これは現在の命令形の否定ですから、「今、あなたは自分の宝を地上にたくわえ続けているが、それをやめなさい」という意味です。宝をたくわえても、虫と、さびで、きず物になってしまい、盗人が穴をあけて盗んでしまうからです。
 2000年前の宝は、高価な布であり、貴金属でした。それらの保管はおそまつで、虫が食い、さびてしまいます。また、鍵が十分ではありませんので、すぐに盗まれてしまいます。

20自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

 だから宝は天にたくわえなさいと言われます。問題はたくわえる場所と、たくわえる宝です。地上でたくわえるもの、その宝は富でありましょう。それを望みとするなら、これだけの富があるのだからと安心すると裏切られてしまいます。
 ルカの福音書12章13節からの箇所に、「愚かな金持ち」のたとえがあります。ある金持ちの畑が、その収穫をたくわえておく倉庫が足りなくなるほどの豊作でした。金持ちは新しい大きな倉を建て、そこに収穫したすべてをしまい言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」その夜、その金持ちは神様に言われます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
 自分のためにたくわえても、神様の前に富まない者の姿を教えています。
 天に財産はたくわえられないとしたらどうしたらよいでしょうか。それを生かして、神様に喜ばれるように用いる時、それが天に宝をたくわえることになるのです。
 神の民とされた者たちは、今生きているこの地上ではなく、やがて行く天に宝をたくわえるように言われます。地上でたくわえるものは、目に見える物資的なものです。天にたくわえるものは、神様が報いてくださるもの、人と神に対して行ったわざ、人からの報いを受けていないものです。
 いま地上で満足を受けるか、将来、永遠に天上で神様からの報いを受ける、その希望を持って生きるかです。

21あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 私たちが神様から与えられたもの、それは恵みによって与えられたものです。富も才能も、仕事も名誉も、みなそうです。それが宝となってしまうと、心がそこにいってしまい、それに一喜一憂し、神様の心を向けることなく、神様から与えられたこと、神様の恵みであることを忘れてしまいます。
 マタイの福音書19章16−26節に、金持ちの青年が出てきます。イエス様に永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいかと尋ねます。彼は、永遠のいのちを自分の力で獲得できると思ったのでした。イエス様が示した守るべきこと、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」はみな守っていますと答えます。もっと教えてくだされば、私はそれを守って、永遠のいのちを自分のものにします。
 そのとき、イエス様が「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。それは、自分の力で救いを得ようとするなら、そこまでしなければなりません。イエス様は、自分の力ではだれも救われないことを青年に教えたのでした。イエス様は青年に、彼の心が富にとらわれ、これだけは捨てられないものがあることを教えられました。

■目が明るいなら

22からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、23もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

 その人の状態は、目を通して明らかになります。目を見ればその人のことがわかります。その人がどういう思いをもって見ているかによって、その輝きが違ってくるからです。
 その人の心の状態がよければ、その人が神様に全く従って生きているなら、それが目を通して明らかになります。また神様だけを見ている目であるならば、その人のうちにあるすばらしいものが周囲に輝き出るのです。
 富について言えば、貧しい者をあわれんで施しをする者、助ける者、それは良い目であり、貪欲で物惜しみをする人、それは悪い目です。
 「あかり」はともしび、ランプのことです。目のあかりが暗ければ、手さぐりになってしまい、その人は道を迷ってしまいます。だから、いつも目を明るくして生きなければなりません。
 私たちがどう思っているか、何をもって生きているのか、私たちの心はどこにあるのか、それによって輝きが違ってくるのです。

■ふたりの主人に仕える

24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 これは奴隷が主人に仕えることです。そして、私たちが仕えているものは何かを考えさせるものです。奴隷は、たった一人の主人に仕えるものです。二人の主人がいたならば、同じように仕えることは不可能です。奴隷が二人の主人を持つことはありえなかったのでした。
 イエス様は「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました。富も主人になり得るのです。私たちの主人は神様です。
 富は、私たちが得た、あるいは神様が与えてくださったものであり、私たちが自由に使っていいものです。しかし私たちの持ち物は、一時的に神から預けられたものです。
 私たちが天に宝をたくわえようと、自分たちの努力でそれをしたならば、それはまたむなしいものになるでしょう。
 すでに最高の宝がいただけることは確かなことであり、私たちのために用意されています。私たちのために、イエス様が十字架において、私たちの罪を支払ってくださいました。そして、私たちに罪の赦しと天の御国での永遠のいのちを与えてくださいました。それが最高の宝物です。それに加えて、私たちは、私たちの歩みを通して、天に宝をたくわえることができるのです。
 その良い行いも神が備えてくださることを知って、私たちは天に少しずつ少しずつ宝をたくわえていきましょう。

エペソ人への手紙2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月3日