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2010年10月10日 主日礼拝説教
「神が心配してくださる」(マタイの福音書6章25節〜34節)
19節から新しい段階に入り、神様の民とされた者たちが歩んで行く時にぶつかる2つの大きな問題。1つは先週取り上げました富についてであり、天に宝をたくわえる歩みをするようにと教えられました。
今週は、思い煩い、心配することについて、また神様に信頼する歩みを取り上げます。ここは聖書の中でも有名な箇所の一つで、「心配」ということば(思い煩う(口語訳)、思い悩む(新共同訳))が6度出てきます。
25節(原文では1回)「何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと(心配したりしてはいけません)」、
27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって」、
28節「なぜ着物のことで心配するのですか」、
31節「心配するのはやめなさい」、
34節に2回「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」。
イエス様は心配するな、それを捨てなさい。神様のご支配を信じ、その中に生きている者たちは神様にゆだね、神様に信頼して歩みなさいと教えられました。
この心配する、思い煩うは、「分ける」「分離する」ということばからできたことばです。心が一つに向かない。あちこちに行ってしまっていることです。私たちはよく小さいことで心配し、思い煩います。そこからなかなか抜け出せないのです。中でも、一番多く身近なものは、衣食についての問題です。だからイエス様は言われました。
25だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
「何を食べようか」は、私たちが生きるためにとても大切なことです。「何を着ようか」も同じです。しかし、それらについて心配してはいけませんと言われます。それは、「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではある」からでした。
大切なのは「いのち」「からだ」です。「いのち」「からだ」は、何を食べるか、何を着るかが満たされているから保たれているのではありません。私たちは食べるもの、着るもの、持ち物によって、「いのち」や「からだ」の存在価値が決定してしまうと考えがちです。そこに心配、思い煩いに陥ってしまう危険性の芽があるのです。
人間は神のかたちに造られた、神様が特別に顧みてくださる存在です。食べるもの、着るもののことで心配するのは、私たちを造られ、私たちにいのちとそれに必要なものを備えてくださる造り主なる神様を忘れているからです。
ですから、まず私たちは、神様が天地の造り、私たちを造られたお方であり、私たちに必要なものを与えてくださるお方であるということを知らなければなりません。それでイエス様は、「空の鳥」「野のゆり」を見なさい。どうなっているかを「考えてみなさい」と言われるのです。
26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがた神様に愛されている者は、「空の鳥」よりも「もっとすぐれたものではありませんか」。あなたがたを主がほったらかしにするはずがありません。「空の鳥」すら養われている神様が、神様に従って生きようと願っている者たちに対して、途中で倒れさせてしまうようなことをなさるはずがないと言うのです。
28節「野のゆり」もそうです。30節「あすは炉に投げ込まれる野の草」も神様は生かしてくださり、「これほどに装って」くださいます。野の花でさえソロモンよりも美しいのです。ソロモンはダビデの次の王様でで、その栄華は当時比類ないものと言われた人でした。
27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
イエス様はまた、私たちが心配したからといって寿命を延ばすことができないと言われました。私たちの寿命は、神様の御手の中にあり、神様が定めておられるのです。神様が来なさいと言えば天国に召されるのですし、まだ使命がある、働きが残っていると神様がおっしゃれば、この地上に生かされるのです。私たちはそのような者たちです。だから心配は無益であると言われます。
30きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」それは、もしかして「よくしてくださるでしょう」などではありません。必要なものは必ず与えてくださるという約束です。
それでも心配が尽きない者なので、神様から「信仰の薄い人たち」と言われてしまうのです。「信仰の薄い人たち」は、ギリシャ語では1文字で、「小さい」と「信仰」が結びついた語です。「信仰の薄い」、小さい信仰とは神様のことを忘れてしまい、自分の尺度、自分の力、自分の常識、時には自分の好き嫌いで測ってしまう信仰です。反対に大きい信仰とは、神様の尺度、神様の力により頼み、神様のみこころをそのまま受け入れる信仰です。それは、主に頼って、ゆだねて生き、問題にぶつかった時、それを乗り越えていく信仰です。
しかしそれがわかっていても、いざその困難にぶつかってしまうと、恐れ、不安に襲われてしまうのです。嵐にあった弟子たちもそうでした。イエス様といっしょに舟に乗っていても、いざ嵐が襲ってきたときに、「舟が沈んで、私たちはおぼれてしまう」と叫んでしまいました。その時イエス様に「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ」と言われたのでした。
だから、こうしなさいとイエス様は言われました。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だからどうしたらいいのでしょうか。何を求めたらいいのでしょうか。「神の国とその義とをまず第一に求める」のです。私たちは、心配を心の中から追い出すことはできません。だから、私たちの思いを「神の国とその義」に向け、それを心に入れるのです。
「神の国」はイエス様によってもたらされました。その義は、イエス様の生涯とイエス様の十字架によって明らかにされました。神の国を受けるには、イエス様の十字架を信じることでした。イエス様が私たちの罪に代わりに死んでくださったことを信じることでした。そのイエス様の義が私たちに覆われたことを感謝して生きるのです。
しかし、まだその「神の国」は、私たちが「御国が来ますように」と祈っているように、この地上に神様の教会が満ち、イエス様がおいでになるまで完成しないのです。
そのことをまず第一に求めて生きなさいと言われています。それはまことに大きな生き方です。そうすれば、私たちの心配、思い煩いは無用です。神の国と義が与えられ、それにプラスして解決が与えられるからです。
私たちの願いがなることではなく、神の国が、神様のご計画がなることを祈り求めるなら、神様のご計画は必ずなり、私たちに必要なものが与えられるのです。
だから、とイエス様はもう一度言われます。
34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
イエス様は、私たちの日々の歩み、現実の歩みを教えてくださいました。私たちは、今日一日を神様にゆだねて生き、明日のことは心配しないようにしなさいというのです。
それは、今日与えられた一日は明日のことを考えて歩むほど小さくはないということです。それほど今日一日が大切なのです。
今日一日を神様から与えられた一日として受けとめ、労苦や試みがあろうともそれを神様にゆだね、神様が解決してくださることを信じて、一日一日を歩む。そのような信仰生活を神様は望んでいらっしゃるのです。
私たちは、「神様は天地の造り、私たちを造られたお方であること。神様は、私たちに必要なものを与えてくださるお方であること」を知って生きること。そして、「神の国とその義を求める」ことです。それは神様の支配と神様のみむねに従って生きることを求め、神の国の到来を心から待ち望んで生きることです。
ペテロの手紙第1、5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
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