ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月17日


2010年10月17日 主日礼拝説教
「そうすれば、はっきり見えて」(マタイの福音書7章1節〜6節)

■はじめに

 6章19節からイエス様は、神様の民とされた者たちが歩んで行く時にぶつかる2つの大きな問題、富について、心配することについて語ってきました。
 7章に入り、対人関係の中で起こってくる問題、共に歩む者たちとどう付き合っていくかについて語ります。まず相手をさばくことについて取り上げます。私たちはどうしても相手をさばいてしまいます。それは、親しい関係にある者の間に起こってくる問題です。表面的には穏やかであっても、心の中にその思いを秘めていることもあるのです。

■さばいてはいけません

1さばいてはいけません。さばかれないためです。

 イエス様は、まず初めに原則を示されました。さばくとは、見下げる、批判する、非難することです。「さばいてはいけません」は、今相手をさばいている者に、即刻それをやめなさいというかなり厳しい断定的な命令です。
 さばく相手が3節から5節に「兄弟」と出てくるように、これは親しい者に対する教えなのです。
 相手をさばかないこと、それは私たちの歩みで最も難しいことの一つでしょう。私たちはどこかの仲間の一員として生きていますが、その中で受け入れ合い、赦し合い、愛し合うことは難しいのです。しかし、イエス様はあえて、今さばいているそのことをやめなさいと言われるのです。
 その理由が語られます。それは、自分が「さばかれないためです」とあります。さばいたことに対して、神様からのさばきがあるからなのです。

■あなたの量るとおりに

2あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 私たちは、相手には自分にできないような厳しい物差しで見てしまい、自分にはゆるい物差しで見てしまいがちです。自分にはできないことを他人にそれを要求してしまうのです。そうであるならば、神様も同じように、天の御国であなたをさばくことになるというのです。
 私たちは、キリストが私たちの罪の代わりに十字架で死んでくださった贖いを信じています。そのことによって、私たちは永遠のさばきにあうことはありません。それは確かな約束です。
 だから、私たちは赦されるからといって、何をしてもいい、罪を犯し続けていいのかというと、そうではありません。私たちはキリストの御霊によって新しい歩みをするように導かれ、そのように歩み始め、歩んでいます。私たちは、神様によって罪赦された者ですが、この地上では聖くされていく道を歩む途上にある者たちです。
 だれも、すでに聖くされた者はいません。私たちの中に残っている罪がそうさせてしまうのです。だから、相手をそのまま受け入れることがなかなかできません。しかしイエス様は、ここで「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれる」という厳しいことばを使って、「さばいてはいけません」という教えはなかなかできないことであるけれども、それが私たちの聖められていく生涯にとって大切な生き方であることを教えられたのでした。

■自分の目にある梁

3また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。

 これが私たちの現実です。梁とは、天井裏に渡されている大きな横木のことです。相手の目にあるちりに対して、自分の目にある梁。これほど大きな欠けがあるのに、それをほかの第3者も知っているのに、それでもあなたは気がつかないのですかというのです。
 この「気がつく」は、ギリシヤ語では、十分に知る、よく考えるということばです。ですから、「気がつかない」とは不注意という軽いものではなく、意図的に気がつかない、わかっていても無視するという意味でしょう。自分の目には梁があることがわかっているのです。

4兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。5偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 イエス様は、そのような人を「偽善者よ」と言って戒められます。では、どうしたらいいのでしょうか。「まず自分の目から梁を取りのけなさい」と言われます。私たちには大きな梁、罪があることを知らなければなりません。自分の判断基準が、その罪によってゆがめられているのです。
 相手が問題なのではなく自分が問題なのです。感謝なことに、私たちはその梁がすでに神様の恵みによって取りのけられています。私たちの罪が赦されている。その感謝の目をもって見る時に、「そうすれば、はっきり見えて」、相手のちりを見た時に、それはまことに小さなものであったことに気づくのです。
 同じ兄弟・姉妹です。神様が同じように恵みによってそのちりを取りのけてくださいます。そう祈り、ゆだねるのです。

■神のことばを踏みにじる者たち

 しかし、そうできないこともあるというのが次のことばです。相手が兄弟ではなく、イエス様は相手を「犬」「豚」と表現なさいました。

6聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

 「豚に真珠」。どんなりっぱなものでも、持つ人によっては何の価値もわからないという意味で、聖書から出たことばです。日本の「猫に小判」と同じです。
 「聖なるもの」「真珠」とは、神様の教え、どうしたら救われるか、その奥義です。「犬」や「豚」は、それを理解しないばかりか、反抗してくる人たちです。実際に福音を信じない人たち、あまりに反抗的態度の人たちです。
 さばいてはいけませんと言われたイエス様でした。しかしイエス様は、このような人たちには、さばくこともやむを得ないことで、教えてはいけない、語ってはいけないと言われるのです。
 私たちは、神様がちょうどよい時に導いてくださることを信じて、神様にゆだね、待っていたいと思います。

■ダビデの罪の赦し

 最後にダビデ王のことをお話しします。ダビデは、美しい人妻バテ・シェバを好きになり、夫の留守をいいことに、王宮に召しだし、姦淫の罪を犯してしまいます。しばらくして、バテ・シェバから妊娠したことが告げられます。バテ・シェバの夫であったウリヤは、ダビデの忠実な家来であり、兵士でした。ダビデは、ウリヤの属する指揮官に、戦いの激しい時に前線に出し、戦死させるように命令するのです。しかもその命令書はウリヤ自身が司令官に持っていったのでした。ウリヤはそのとおりのことをされ、戦死しました。そしてダビデは、何事もなかったかのように、バテ・シャバを妻として迎えたでした。
 そこに、預言者ナタンが神様のことばを伝えます。ある富んでいる人が、貧しい友人の大切にしていた子羊を奪って、殺してしまった。王様、どういたしましょうか。ダビデは、それが自分のことであることに気づかず、「その男は死刑だ」とナタンに答えます。ナタンは言いました。「ダビデ王様、あなたがその男です。」
 私たちは事の大小はあるでしょうが、ダビデのしたことと同じことをしているのです。私たちも、自分のある大きな梁に気づかず、相手のちりをさばいているのです。
 パリサイ人の祈りがあります。

ルカの福音書18:11「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」

 このパリサイ人は、イエス様に義と認められなかったのでした。しかし、ダビデは、神様に悔い改め、罪を赦していただきました。

サムエル記第2、12:13「ダビデはナタンに言った。「私は【主】に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」

 私が17歳のとき、人生の転機になった聖書のことばです。自分の目の中にあった梁に気づき、取り除いていただいたのでした。
 「さばいてはいけません。さばかれないためです。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
 私たちは、自分の目から梁を取り除いていただいた者です。その恵みを覚え、感謝して、歩み続けたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月17日