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2010年10月24日 主日礼拝説教
「そうすれば、与えられます」(マタイの福音書7章7節〜11節)
神様の民とされた者たちがこの世でどう歩んでいったらよいか。それを6章19節から天に宝を積む生き方。何事も心配しないで神様の国とその義とを第一とする生き方。そして先週は、「さばいてはいけません」と見てきました。そのような歩みを通して神様は、神の御国への道を歩む私たちをだんだんと、それにふさわしい者へと整えていってくださるのです。
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
文語訳聖書で、「求めよ、さらば与えられん」と訳された有名なことばです。一般では、何かがほしいと思うものを熱心に求めればそれが与えられるという意味で使われています。しかし、これは神様への求め、祈りについての教えなのです。
祈りについては、6章6−15節で、「主の祈り」を含めて、どのように祈ったらよいか教えられました。それは、祈りは人に見せるものではなく、ひとりひとりが隠れた所におられる神様にささげるものであるということでした。今日の箇所では、神の民とされ天の御国を目指している者は熱心に祈りなさいと教えます。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」ここには3つの命令があります。これら3つは継続を表す現在命令形で、求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさいという意味です。
そして「与えられます」「見つかります」「開かれます」は未来形が使われています。神様にとって未来は確実なことですので、求め続ければ必ず与えられますという意味になります。
この祈りは、より熱心に、より深く求めていく段階を示しており、また祈りとともに、そこには行動も伴っているように思えます。与えられなければ、より熱心に捜し、見つけられなければ、より熱心にたたいていく。そのように祈り続けなさい。そして祈り続けながらも、自分でできる最善と思われることをしていきなさい。じっと待っているだけではない、そこに必ず答えが返ってきます。そのように祈り続けなさいと教えられているのです。
「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」の祈りは、求める者の側に緊迫した状況があります。求めは神様のもとに届いているのですが、あるいは、もっと祈りの本質を言えば、神様は求める前からそれをご存じであるのですが、それでも神様は求める者に熱心に祈り続けるようにと教えられるのです。
マタイの福音書6:7−8「7また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
そのように教えた神様ですが、神様は、あなたがたは求め続けるように、探し続けるように、たたき続けるようにと教えておられます。
祈りこそ神の恵みをいただく手段だからです。神様の約束は、「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」です。祈り続けた者だけが、神様の恵みを体験できるのです。祈らなければ、日々の生活の中で神様が与えてくださっているたくさんの恵みを感じることができないのです。
祈りの答えを、神様は熱心に祈った者への贈り物として見せてくださり、私たちは、日々の祈りの生活の中に神様を身近に覚えることができるのです。それが祈りの恵みです。
神様が、祈る前から私たちの必要を知っているのに、また「神の国とその義とをまず第一に求めるならば」、私たちが心配するようなものはすべて与えられると教えられているのに、なお熱心に祈り続けるようにと勧められています。そのような信仰生活、そのような祈りの生活を送るならば、求めたことを神様が与えてくださり、私たちの祈りに神様が答えてくださったことを体験でき、たしかに神様はおられて、私たちの必要をご存じであられることを知ることができるのです。
9あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。10また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
真夜中に、友達にパンを貸してほしい頼んだ時、断られても、なおしきりに頼み続けた結果、友達からパンが与えられたという話がルカの福音書11章にあります。
私たちの願う相手は、友達以上の親子関係にある神様です。私たちは、その父なる神様に頼み続けるのです。父は、子どもに有害な物を与えないし、父は良いものを与えてくださいます。
11してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
神様は、あなたがたに良いものを与えてくださいます。神様は、願ったパン以上の「良いもの」をくださるかもしれません。熱心に祈る者にその求めたものがそのまま与えられるのではなくて、神様が思われた「良いもの」を与えてくださいます。それが神様の「良いもの」であったことを、祈る続ける者に味わうことができるのです。
私たちの祈りは、「神の国とその義とをまず第一に求める」ことが大前提です。そこに立って求め続ければ与えられ、捜し続ければ見つけ出し、たたき続ければ開けてもらえます。
もうひとつ、同じイエス様のことばはルカの福音書でこうなっています。
ルカの福音書11:13「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
良いものとは聖霊であるとルカは書いています。聖霊こそ、私たちへ与えられる最も良いものです。私たちは聖霊が与えられるように祈る必要はありません。私たちがキリストを信じた時に、聖霊が私たちに与えられたからです。神様が与えてくださる「良いもの」は、聖霊に満たされていくこと、御霊を十分に働かせてくださることです。そこからクリスチャンの品性、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を結ぶことができるのです。
聖霊が働いてくださることによって、私たちは力を与えられ、勇気を与えられ、希望を与えられます。さらに祈りの御霊が働いて、祈りから祈りへと導いてくださいます。その祈りに対して神様は、すべてを益としてくださるものを、私たちに必要なものを、必要な時に祈りの答えとして与えてくださるのです。
これからもこのような祈りの生活を続けたいと思います。求め続ける祈りに神様か答えてくださることを信じて、神様が最良のものを与えてくださることを信じて私たちが祈り続ける時に、霊の目が開かれ、霊的な感性が磨かれ、私たちに与えられたものが確かに良いものであることを知ることができるのです。
そして、神様がいらっしゃることを実感でき、さらに神様の栄光を見ることができる。そのような恵みと祝福をいただきたいと思うのです。また私たちのうちに御霊が働いてくださることを信じて、これからも祈りつつ歩みたいと思います。
エペソ人への手紙6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」
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