ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月31日


2010年10月31日 主日礼拝説教
「いのちに至る門」(マタイの福音書7章12節〜14節)

■はじめに

 神様の民とされた者たちがこの世でどう歩んでいったらよいか。今まで4つの歩みを見てきました。1つは、6章19節から天に宝を積む生き方をしなさいということ。2つは、25節から何事も心配しないで神の国とその義とを第一とする生き方をしなさいということ。3つは、7章1節から、さばき合う生活をしないようにということ。4つは、7節から神様に求める続ける生活、祈りの生活をすることでした。それを受けて今日の箇所になります。

■黄金律

12それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 12節は黄金律と言われている箇所で、神の民として行動するときの指針となる教えとして知られています。確かに、このことばは、旧約聖書にあるすべての戒めをまとめた大切な教えです。それは、「これが律法であり預言者です」と書かれているからです。
 「律法と預言者」は、旧約聖書全体を指すことばです。聖書を語っていることを一言でいえば、聖書の教えにどのようなことが根底にあるかというと、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という教えであると言っているのです。
 黄金律は「それで」ということばで始まります。5章17節でイエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と言われました。そこにも「律法と預言者」が出てきました。そこから始まって、人に対してどうするのか、神様に対してはどうするのか、神の民としてどう歩んでいったらいいのかと事細かに語ってきました。それらのことも、結局はこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」の一言に尽きる。パリサイ人たちが教え守るように言っている律法の精神はこれである。そのことを成就するためにわたしは来たとイエス様は教えたのでした。

■そのようにしなさい

 ところが、パリサイ人もこれと同じような「自分がしてほしくないことを、人にしてはいけない」という教え、考えを持っていました。イエス様の「そのようにしなさい」に対して、パリサイ人は「してはいけない」という禁止の教えでした。「他人に迷惑をかけてはいけない」は大切な社会常識の一つです。「してはいけない」ではなく、イエス様の教えは、積極的に愛の行動として行うようにと教えたところに新しさがあったのでした。
 自分にしてほしいことは尽きることがありません。こうしてもらったら、さらにこうしもらいたいと願い続けます。それは、私たちが持っている欲がそうさせるのです。その欲は私たちの心にある罪です。そう考えたら、私たちが人に何かをしようとしても、そのようなことはとうていできない自分に突き当たるのです。
 しかしイエス様だけが、私たちへの究極の愛をもって、そのことをなしてくださいました。私たちを愛してくださったその愛を残るところなく、最後の最後まで、すべての愛をもって私たちに注いでくださいました。
 それが十字架でした。十字架の死を通して、私たちの罪を赦してくださいました。十字架は「律法と預言者」の成就であり、イエス様は「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」を自ら十字架の死をとおして行ってくださったのでした。

■神の国に入るには

 山上の説教は、次の段落から7章の最後まで、新しい「神の国に入るには」というテーマで4つのことを語ります。今日は、その最初の一つを見てみましょう。

13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 イエス様は、「狭い門は狭い道に通じており、その先はいのちに至る」とおっしゃいました。だからどちらかを選ぶように求められたら、その狭い門から入るようにというのです。
 広い門から広い道に進む人たちは、神などいない、神様がいなくてもやっていけると思っている人たちです。「そのように思う人は多い」とイエス様は言われました。しかし、その道は滅びに通じているのです。
 いのちとは、神様と共に天の御国で住むことができる永遠のいのちです。滅びとは、神様のさばきにあって永遠に燃えるゲヘナの火に投げこまれることです。
 狭いということは、そこには困難・労苦が伴うことが暗示されています。一方広い門、広い道は、見たところ良く見えて、そこを歩んでいけば何もかもうまくいくように思えるのです。
 それでは、イエス様が入るように勧めた門、いのちに至る道はどうして狭くて入る人が少ないのでしょうか。それは、一つには門そのものが狭いということです。狭い門に入るには荷物を捨てなければならないし、頭を低くして入らなければなりません。
 もう一つは、門の前で入るかどうしようか、立ち止まって決断をしなければならないからです。それは十字架と復活を信じ、イエス様に従っていこうと決心する信仰への決断です。
 しかし、いったん狭い門から入ったならば、そこはいのちに至る道です。困難・労苦があるかもしれませんが、どこに行くのか目標がしっかりしており、何のためにこの道を歩んでいるかわかり、いっしょに歩む人たちと助け合って進むことができる道です。
 最初の弟子たちは、十字架を前にして、この道を歩むことから逃げ出しました。しかし、彼らはイエス様の復活を見て、この狭い道を歩むようになりました。「見て、信じた」は、イエス様と共に生きた弟子たちの特権でした。私たちは、その弟子たちのことばを通して信仰に入るように導かれています。最初の弟子たちのことばです。

使徒の働き3:15「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」

使徒の働き4:20「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

 「狭き門」は大学受験に使われることばです。定員が決まっていて、入りたくてもそれ以上入ることができない。そのような意味で狭き門です。しかし、イエス様が言われた狭き門は、だれもが入ろうと願うならば入ることができる開かれた門です。それはイエス様ご自身が門であるからでした。

ヨハネの福音書10:9「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」

 共に、この門から入り、いのちへの道を今歩んでいることを感謝いたします。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年10月31日