ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年11月14日


2010年11月14日 主日礼拝説教
「みことばを聞いて行う」(マタイの福音書7章24節〜29節)

■はじめに

 5章から始まった山上の説教は最後の段落になりました。イエス様は、7章13節から天の御国に入るにはどうすればよいかを語られました。1つに、狭い門から入るように。2つに、にせ預言者に気をつけ、その声に耳を貸さないように。3つに、神のみこころを行うように。そして最後、今日の箇所で、みことばを聞いて行うようにと語られました。

■家を建てる

24だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

 「だから」は、直接的にはすぐ前の、にせ預言者たちを受けているでしょう。にせ預言者たちは神様のみこころを行っていませんでした。だからみことばを聞いて行う人になりなさいというのです。さらに「だから」は、この山上の説教でいろいろ語ってきた結論としても見ることもできるでしょう。
 まず、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」と結論を語ります。それまでの律法の教師は「神が与えた律法を守るように、その守り方はこうである、こう教えている」と語っていました。ところがイエス様は、イエス様ご自身のことば、「わたしはこう言います」と教えられました。そのわたしのことばを聞き、それを行うようにと語ったのでした。

26また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 この二人は、共に同じように「家」を建てました。見た目には何ら変わらない家でした。建てられた場所も同じような場所でした。
 マタイの福音書では、岩と砂と、一見して違いがわかる場所に建てたように言われていますが、だれも明らかに流されやすい危険な砂の上に建てる人はいないでしょう。
 そこで、ルカの福音書ではこうなっています。ルカのほうが家を建てるには現実的です。

ルカの福音書6:48−49「48その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。49聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

 初めから岩が見えていたわけではありません。地面を深く掘ったかどうかの違いでした。どちらも同じ土地で、賢い人は岩のあるところまで掘り進んで、それを土台としました。愚かな人は掘らなかったか、あるいは少し掘って、もう大丈夫だろうと、いい加減なところで掘るのをやめてしまい、そこを土台にして家を建てたのでした。
 建てられた2つの家に、同じように「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」嵐が襲ってきました。雨が降って初めて、その家がどのような土台の上に建てられているかがわかるのでした。
 雨が降り、洪水になることは、信仰の試練、迫害、誘惑、苦難などを示しています。イエス様のみことばを聞いて守っている人には洪水がこなくて、守らない人に洪水が押し寄せるというのではありません。どちらも同じようにやってくるのです。

■聞いて行う者

 このようなたとえ話をもって、イエス様は、「天の御国に入るには」岩の上に家を建てなさいと語りました。
 岩は「わたしのことば」、イエス様の教えを指します。それでは、岩の上に家を建てるのはどうしたらいいのでしょうか。まず「イエス様のことばを聞く」ことです。イエス様は「わたしのこれらのことばを聞いて」と、24、26節に2度繰り返して語られました。この「わたしの」は、原文では強調された言い方になっています。「わたしの」と言って、聞いている人に特に注意をうながそうとされたのです。
 「わたしのこれらのことば」は、今は聖書にまとめられています。聖書を読むときに、聖霊の働きによって、あたかもイエス様が語っているかのように、私たちの心に響いてくるのです。これからもみことばを読み、イエス様のことばを聞く者となりたいと思います。
 岩の上に家を建てる者とは、「聞いてそれを行う者」です。聞くだけでなく、行う者です。
 先週、「父のみこころを行う者」が天の御国に入ることができるとお話ししました。父のみこころ、神様のみこころとは、神様が立てた救いのご計画です。それは、人々を救い、神の国に招こうとする計画です。そのためにイエス様が神様からこの世に遣わされ、人々の罪の代わりにイエス様が十字架で死ぬことによって、救いの道を開いてくださいました。その道を歩んでいけば、みな神様の民とされ、神様の御国に入れることができるのです。

コリント人への手紙第1、3:10−11「10与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。11というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」

 土台はイエス様ご自身です。神様のみこころであるイエス様を信じること、イエス様を土台として家を建てること、それが岩の上に家を建てることです。その人は、洪水がやってきても、その家は倒れることがないのです。
 「聞いてそれを行う者」にもう一つの面があります。岩を土台として家を建てた人たちが、この山上の説教に言われたようなことを行うことも神様のみこころです。
 岩を土台とした家をどのように建て上げていくかは、この世での、御霊の働きによる、それぞれのクリスチャン生活です。パウロもその歩みによっていろいろな家が出来上がると表現しました。

コリント人への手紙第1、3:12−13「12もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、13各人の働きは明瞭になります。その日(終わりの日)がそれを明らかにするのです。」

■洪水がやってきても

 イエス様の教えを聞くだけの人、それは「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」でした。賢い人の家とは反対に、その家は倒れてしまいます。「しかもそれはひどい倒れ方でした」と念を押されてしまうような倒れ方でした。聞いて行うのと、聞いて行わないのでは、このような決定的な違いが起こるのです。
 私たちの歩みにおいて嵐はやってきます。人生の岐路に立たされたとき、土台が何であるかに明らかになります。しっかりした土台によって家は支えられ、生活は守られるのです。
 私たちはイエス様を信じることによって、岩の上に家を建てることができました。その土台を見つけたこと、それで神の国に入ることができるのです。そして、どのような家を建てていくのか。どう歩んでいくのか。その日々の歩みは御霊なる神様の働きです。
 私たちは、この山上の説教で語られた一つ一つのことばを学んできました。文字通り実行するにはなかなかできない、あるいはとうていできないようなこともありました。それでもイエス様が、山上の説教の最後に、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな」と言われました。
 私たちは、すでに岩の上に建てられた家ですが、その家を、日々美しい家に立て上げていきたいと思います。そのように御霊なる神様がしてくださることを信じて、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年11月14日