ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年12月5日


2010年12月5日 主日礼拝説教
「私たちの病を背負ってくださるキリスト」(マタイの福音書8章14節〜17節)

■はじめに

 8章から始まった10の奇蹟の3つ目は、ペテロのしゅうとめのいやしです。今までのいやしと違うのは、「ツァラアトに冒された人」は本人から、「百人隊長のしもべの中風のいやしは」は百人隊長からの願いの結果でした。今回はイエス様ご自身から行ったいやしでした。
 またこの3つの奇蹟を見ると、ツァラアトに冒された人は社会に受け入れられなかった人、百人隊長のしもべは異邦人であり、今回は女性です。異邦人も女性も、ユダヤの社会では地位が低いとされ、神の国から遠いと言われていた人たちでした。そのような人たちに手を差し伸べられたのがイエス様であり、そのような人のために来られたのがイエス様でした。

■ペテロのしゅうとめ

14それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。

 「それから」と言って、この出来事は百人隊長のしもべのいやしが終わってからペテロの家に行ったように書いてあります。マタイの福音書は8、9章でイエス様の奇蹟をまとめて書き、しかも最初にユダヤ社会で重んじられていなかった3人(ツァラアト、異邦人、女性)を取り上げたと思われます。
 マルコの福音書(1:29)、ルカの福音書(4:38)を見ると、カペナウムの会堂で安息日の集会が終わった後ペテロの家に向かい、そこで行われた奇蹟であることがわかります。
 ペテロは結婚しており、しかもペテロの妻の母、ペテロにとってしゅうとめにあたる人も同居していました。ペテロはイエス様に呼ばれてから、仕事をやめてイエス様に従っていたので、カペナウムにあったペテロの家は、妻とそのお母さんが留守を守り、イエス様がカペナウムに中心として活動していた時、その拠点あるいは宿泊所として用いられていたと思われます。何もかも捨ててイエス様に従ったペテロでしたが、それまでペテロが持っていたものがイエス様の宣教のお役に立っていたのでした。
 さらに後になって、この妻は夫のペテロの伝道旅行に同行しました。そのことがコリント人への手紙第1(9:5)に書かれています。
 しゅうとめは夫が死んで、娘のところに来たと考えられます。年をとり、娘の嫁ぎ先で世話になっている。そのような状況の中、「熱病で床に着いていた」のでした。ルカの福音書では、医者であったルカらしく、それは単なる熱が出たというものではなく「ひどい熱」であったと表現しています。
 しゅうとめは、その日礼拝にも行くことができませんでした。それは彼女にとって楽しみの一つであったでしょう。そのあとにいっしょに食事をすること、そのお世話をすること、それも喜びであったことでしょう。それらができなくて、寝ていなければならなかったのでした。

■イエス様のいやし

15イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

 イエス様はしゅうとめの手にさわっていやしてくださいました。先のツァラアトのいやしと同様、イエス様はまずさわってくださいました。ツァラアトの場合もそうでしたが、熱病の人にふれることは、ユダヤの教師はしないことでした。イエス様の愛の思いとあわれみの心があふれている動作です。
 ツァラアトの人がいやされて、そのあと社会の交わりの中を歩んだように、このしゅうとめも、いやされたあと彼女のしたかったことができるまでに回復させられました。
 「熱がひき」はその時起こったことを表す動詞であり、「イエスをもてなした」は、もてなし続けたという継続の動詞になっています。イエス様に仕え続けることの喜びが伝わってきます。イエス様は病をいやしてくださり、その人が一番望む生き方に導いてくださったのでした。

■夕方のいやし

 夕方になり、安息日が終わりました。

16夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。

 安息日では外に出ることや、病気を直すことは禁止されていたので、それまでじっとしていた人がイエス様のおられるペテロの家にやってきました。
 悪霊につかれた人、さまざまな病気を持った人がいやされました。悪霊につかれていた人は大ぜいでした。彼らには「みことばをもって」悪霊を追い出されました。悪霊はイエス様の時代に多く出てきます。イエス様が来られたことで、この時、悪霊の働きが強まっていたのでした。
 そのほかの病気の人々もみないやされました。イエス様の力をもっていやすことのできない病気はありませんでした。
 いやしは、イエス様の初期の活動では、イエス様が神の子であることを知らせるために必要でした。これら病のいやしが、またこれまで語られてきた3つのいやしの奇蹟が聖書の預言の成就であったことをマタイは説明します。

17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 マタイはイザヤ書53章4節を引用しました。イザヤ書53章は、来るべき救い主はどのようなお方であるかを預言した箇所です。マタイはこのことばを引用して、イエス様が病を背負い、引き受けられたことを読者に示しました。
 イエス様は病を、ご自分がそのような病であるかのような思いをツァラアトの人や百人隊長に、そしてペテロのしゅうとめに注いでくださいました。このようにイエス様は、病人の心の悩みと悲しみを負ってくださったのでした。
 しかし、病を背負われることの最も深い意味は、病と、その病から死に至る根源、罪を解決してくださることでした。もはや病もなく、死もない。そのような御国での新しいいのちを与えてくださることでした。
 イエス様のいやしは、単に病気を直すということだけではなく、その人に信仰にふれてくださいました。イエス様の奇蹟は、病だけでなく、罪の赦しと神の御国を約束する宣言でした。
 マタイは、いやしのわざを目の当たりにして、確かに約束の、預言されていた救い主がやってきたことを告げました。

イザヤ書53:4−5「4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 私たちの病を背負ってくださったイエス様を覚えて、これからも歩みたいと思います。また今日の聖餐式に感謝して臨みましょう。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2010年12月5日