ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年2月6日


2011年2月6日 主日礼拝説教
「あなたの信仰のとおりに」(マタイの福音書9章27節〜34節)

■はじめに

 8章から始まった奇蹟の9番目と10番目です。これらはマタイの福音書だけに記されている奇蹟です。最初は2人の盲人のいやしです。
 聖書には盲人のいやしがいくつか出ています。マルコの福音書8章では、イエス様はベツサイダという町の盲人の目を開けられました。マルコの福音書10章では、エルサレムに行く途中エリコの町で、バルテマイという盲人がいやされました。これはマタイ、ルカの福音書にも記されています。ヨハネの福音書9章には、エルサレムのシロアムの池で洗うように言われた盲人が出てきます。

■2人の盲人の叫び

 イエス様がヤイロの娘を生き返らせ、そこを出て道を歩いていた時、2人の盲人がやって来ました。

27イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

 2人の盲人は、「大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながら」追いかけて来ました。どうか目を開けてください。あなたはダビデの子である救い主キリストであり、あなたのみこころなら私たちの目をあけることができます。「そう信じます」という信仰の叫びでした。
 「ダビデの子」とは、救い主と同じ意味で使われています。サムエル記にこのように預言されていました。神様がダビデ王に語ったことばです。

サムエル記第2、7:12−13「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

 神様の「とこしえまでも堅く立てる」という約束は、実際のダビデ王朝がバビロニヤに滅ぼされてしまったので、実際には実現しませんでした。そこでユダヤ人たちは、この預言によって、ダビデの子孫から永遠にイスラエルを支配する救い主が生まれると考えたのでした。
 救い主である「ダビデの子」という称号は、しだいに政治的な意味合いを持つようになり、この時代では、ローマから解放し、独立戦争を指導する「ダビデの子」を待ち望んでいました。
 しかし神様が約束された救い主は、この世での王ではなく、人々の罪から解放する王であり、この世の権力を持たない王であり、すべての人のしもべとして仕える柔和な王であったのでした。
 イエス様は確かに「ダビデの子」と呼ばれるにふさわしいお方でしたが、この時はまだ民衆に利用されたり、ローマに危険視され捕らえられてしまうことを避けておられました。それでイエス様は、その声を聞きながら、無視されたかのようにして家に入って行かれたのでした。

■あなたの信仰のとおりになれ

28家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。

 イエス様が家に入られると盲人たちもついて来ました。そこでイエス様は、盲人たちと話をされ、彼らの信仰を確認されました。盲人たちは「そうです。主よ」と、イエス様への信仰を表明しました。

29そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

 イエス様は、その目にさわってくださいました。あなたがたの信仰のように確かにわたしは目をあけることができる。あなたがたが望んでいるように、その信仰のとおりに目が見えるようになれとおっしゃったのでした。
 「信仰のとおり」とは「そう望んだそのとおりに」ということです。私たちがどのような信仰であっても、神様は恵みを一方的に与えてくださるお方です。それでも私たちは、神様からの恵みを期待し求めたいと思います。
 神様への信仰が答えられたことを知った時に、「信仰のとおりに」神様が私のために良きことをしてくださったことを感謝できるのです。また「信仰のとおりに」なった喜びをも同時に覚えることができるのです。
 盲人たちは「目が見えるようになる」という最大の期待をイエス様にかけました。イエス様はその信仰のとおりに目を開けてくださいました。

■イエス様のことが広まっていった

30すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。31ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。

 イエス様は、この奇蹟が広められることを望みませんでした。それは、イエス様の本当の目的が人々の罪を赦すために十字架にかかることであり、この時期に「奇蹟を行う、病をいやす人」という評判を立てられたくなかったからでした。
 しかし、目を開けてもらった2人にとっては、それを言わないでおくことはできませんでした。たちまちのうちに、イエス様がなさったことはガリラヤ地方全体に広まっていったのでした。

■悪霊につかれて口のきけない人

 さて、最後の10番目の奇蹟です。

32この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれて口のきけない人が、みもとに連れて来られた。

 目の開かれた2人の盲人が喜びながら家を出て行ったあと、今度は口のきけない人が連れて来られました。これは悪霊につかれていたことから起こった病でした。イエス様は、この人に悪霊につかれたゆえに口がきけなくなったことを見抜き、悪霊を追い出されました。
 この人は、先ほどの2人の盲人とは違って、イエス様に信仰を言い表すことができませんでした。しかし、イエス様がそうなさりたいというお心であったのでいやされました。

■イエス様の奇蹟に対して

 この奇蹟は群衆とパリサイ人に違った反応を与えました。

33悪霊が追い出されると、その人はものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。

 群衆は驚きました。それは、目が開く、耳が開く、口が開くという奇蹟に、救い主の姿を見たからでした。救い主はこういうお方であるという預言がありました。

イザヤ書35:5−6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」

 群衆は、もしかしてこのお方は救い主かもしれない。彼らのイエス様を見る目がそのように向けられていったのでした。

34しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 「パリサイ人たち」の反応は違いました。パリサイ人は群衆の驚きを快く思わなかったのでした。しかし確かに目が開かれ、悪霊が追い出されて口がきけるようになった人を否定できませんでした。それで、「悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出している」と非難したのでした。
 これは、自分たちとは異質の教師であったイエス様をどう評価してよいかわからなかったことと、あえて群集とは反対の考えを表明し、ついにはイエス様を殺そうとするまでになる最初の芽でした。

■このお方はどういうお方だろう

 イエス様のさまざまな奇蹟を見てきた人々にとって、このお方はどういう方なのだろう。「ダビデの子」とよばれる救い主なのか、それとも、まやかしのわざを見せる悪霊のかしらなのか。それが明らかにされないままマタイの福音書は続いていくことになります。
 このようにイエス様の奇蹟や、イエス様のお話を聞いた時に、その反応がさまざまでした。私たちは、そのような中からイエス様のみこころによって召し出され、神様の前に立つことができました。イエス様の十字架と復活を知った時に、それが私たちの罪の身代わりの死であり、それを信じる者に罪の赦しが与えられ、永遠のいのちに生きるように導かれました。そのことを感謝して、今日の聖餐式を迎えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年2月6日