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2011年2月13日 主日礼拝説教
「収穫の主が働き手を送ってくださる」(マタイの福音書9章35節〜38節)
イエス様が行った10の奇蹟を8章から見てきました。先週は、最後の9、10番目、2人の盲人と悪霊につかれて口のきけなくなっていた人のいやしでした。このあと、イエス様を取り巻く人たちの反応が示されました。
マタイの福音書9:33−34「群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。」
弟子たちもそうでした。イエス様が嵐を静められた奇蹟の後、弟子たちは語りました。
マタイの福音書8:27「人々(弟子たち)は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」
山上の説教を聞いた人たちもそうでした。
マタイの福音書7:28−29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
このお方はどういうお方なのだろう。このお方が救い主なのだろうか。しかし、パリサイ人、律法学者の間では、イエス様の教えの中に自分たちの守ってきた律法と解釈、伝統と相いれない教えを見出し、イエス様を排除しようとする動きを見せ始めたのでした。
35それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。
マタイの福音書は、ここから新しい段落に入ります。これと同じことばが4章23節にありました。
マタイの福音書4:23「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
これは新しい段落に入る鍵のことばです。そこから始まって、5章から山上の説教と10の奇蹟が語られてきました。9章35節から新しい段落に入り、イエス様の弟子とは何なのか、弟子たちに何が起こるかが10章の終わりまで語られます。そして11章に入るとまた、鍵のことばで新しい段落に入っていきます。
マタイの福音書11:1「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」
さて、イエス様のところに来た人たちは、イエス様のお話を聞きに、また「あらゆる病気、あらゆるわずらい」を持って、その救いを求めて続々とやってきたのでした。それをイエス様がひとりで語り、手を差し伸べておられたのでした。このように、これまではイエス様おひとりの働きでしたが、これからはイエス様を助ける働き手が必要になるのでした。
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
イエス様を求めてきた人たちは、「羊飼いのない羊のよう」であり、行く先もわからず、さまよい歩き「弱り果てて」いました。水も食べ物もあるところがわからず、右往左往し「倒れて」しまった人たちでした。
羊は羊飼いなしには生きられない動物です。羊は羊飼いによって食事が与えられ、外敵から守られます。ところが、イエス様が見た群衆は、羊飼いのいない羊のようでした。人々はどこに行ったらよいかわからず、死の危険にさらされても守ってくれる人がありませんでした。
イエス様は、それらの人々を見て「かわいそうに思われた」のでした。これは内臓を表すことばから出た表現で、イエス様の悲しみを表す時に使われることばです。内臓をえぐられるような深い悲しみ、「はらわたが痛む」、そのような感情を表します。そして助けの手を差し伸べずにはいられない。何か行動を起こさずにはいられない。それが「かわいそうに思われた」ということばです。
イエス様が、群衆たちの思いを知り、そこに立っておられます。実際には、群衆はあとで知るのですが、群衆よりもっと低いところに立たれて、群衆を救うためにいのちをささげてくださったのでした。
そのようにイエス様は、人々を「かわいそうに思われた」のでした。なんとか神の国を伝えたい。その思いからこう言われました。
37そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
収穫とは、神の国への収穫です。神の国に入る人を倉に納めるように、その人たちを迎え入れることです。それは、弱り、倒れ、羊飼いのいない羊のような人たちに、手を差し伸べ、神の国を伝え、そこに生きる喜びを知らせ、神様のもとに導く働きです。
神の国に入る人たち、そこに入ろうと待っている人たち、神様が選んでいる人たちは大勢います。そのように収穫が多いのに、神様がそのように備えてくださっているのに、そこに導く人が少ないのです。だから、それを伝えなくてはならないのです。
パウロは、テモテへの手紙でこう書きました。これはパウロの最後の手紙であり、パウロが愛する弟子・テモテに書き送った遺言のような手紙です。その最後の最後に、テモテにこう勧めました。パウロは、死を前にして、自分の生涯を顧みて、これだけを語っておきたいと願ったことばでした。
テモテへの手紙第2、4:1−2「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
神様の御前で、キリストの御前で命じます。イエス様がもう一度いらっしゃる。そして神の国が実現する。それを思って、この地上にも神の国のすばらしさを味わうことができる人たちを招くように、その人たちが死を迎える前に、時が良くても悪くてもしっかり働き人としての務めを果たしなさい、とテモテに命じたのでした。
救われるかどうかは神様のみこころの中にあります。しかし、神様はその救われる人を導き出すために、働き人の手にゆだねられているのです。宣べ伝える人がいなくてはだれが救われるでしょうか、と言われているとおりです。
ローマ人への手紙10:13−15「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。」
13節の「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」は、神様のなさる収穫のわざ、神様の働きです。14節以降が、そのために必要とされている働き人です。
イエス様が来られ、神の国が宣べ伝えられました。イエス様の十字架の死によって、神の国に入る道が開かれました。そこに入ろうとする人たちは大勢であり、羊飼いのいない羊のようであるにもかかわらず、イエス様を知らせ、イエス様のもとに導く働き手が少ないのです。
38だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
だからイエス様は、収穫の主である神様に働き人を送ってくださるように祈りなさいと言われました。その働き人とは、牧師、宣教師など、みことばを専門に伝える人たちです。イエス様は、まず祈りなさいとおっしゃいました。
働き人の働きは土地を耕し、種をまくことです。収穫させてくださるのは「収穫の主」、神様です。そのような働き人を通し、神様の選びが明らかにされ、収穫の中に入れられたのが私たちでした。私たちも、神様が「かわいそうに思われた」ひとりであったのでした。
ですから私たちは、その喜びを味わい、感謝をもって歩みたいと思います。そしてイエス様は、救われたひとりひとりに、神の国の一員となったひとりひとりに働き人を送ってくださるように祈ることを教えられているのです。
今も「収穫は多いが、働き手が少ない」のです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」私たちは、そのように救われたことを感謝し、神の国のために、その働き手が起こされるように祈りたいと思います。
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