ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年3月13日


2011年3月13日 主日礼拝説教
「恐れることはありません」(マタイの福音書10章24節〜33節)

■はじめに

 イエス様は12弟子を使徒として任命され、彼らを「イスラエルの失われた羊」のところに派遣するためにいくつかの注意事項を教えられました。迫害する者たちがいて、弟子たちを捕らえ牢に入れるかもしれない。そのような危険があることも知らせ、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに」行動しなさいと教えられました。
 今日の箇所は、そのような迫害や困難にあっても恐れないようにと語ります。

■弟子はその師にまさらず

 1つ目は、本来、弟子はその師のようにはなれないが、主イエスが非難されたように、弟子たちも同じように非難されるということです(24-25節)。

24弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。25弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

 これは師であるイエス様と弟子との関係で言われていることです。弟子はイエス様に呼ばれ、イエス様に従いました。弟子たちはイエス様のようになりたいと思ったはずです。イエス様は「わたしのようになれる」と言うのです。しかしそれは、イエス様が悪霊のかしら、「ベルゼブル」と呼ばれたような迫害にあうことだったのでした。
 イエス様が「ベルゼブル」と呼ばれるので、弟子たちにもイエス様について来るかぎり、「ベルゼブル」の弟子と呼ばれます。そのように言われてもひるんではならなりません。イエス様と弟子は、家長とその家族の関係にあるり、そのような苦難をもあずかることは光栄であるというのです。
 そのような苦しみは神様からの賜物であることを、パウロはこう書きました。

ピリピ人への手紙1:29「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」

 イエス様は、最後の晩餐の時にもこのように言われました。

ヨハネの福音書15:20「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」

 イエス様がこの世から迫害を受けたように、弟子たちも同じような扱いを受けるのです。

■言い広めなさい

 2つ目は、迫害を恐れて語ることを隠しておくことはできない。だから積極的に言い広めなさいということです(26-27節)。

26だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。27わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。

 イエス様はそのような迫害者に対して、「彼らを恐れてはいけません」と警告されました。
 「おおわれているもの、隠されているもの」とは、これからイエス様が行おうとしていることであり、いやされた人たちには黙っているようにと言われ、弟子たちだけに教えようとされた奥義です。「暗やみで話されたこと、耳もとで聞いたこと」は、十字架によって、またイエス様の復活によって明らかにされることでした。そのことを体験したならば、復活されたイエス様を見たならば、弟子たちが人を恐れることは愚かなことです。
 天国の奥義をイエス様に教えられたとおりに「明るみで、屋上で」言い広めなさい、というのです。
 ペテロとヨハネはこう語りました。

使徒の働き4:19−20「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」」

■たましいも体もほろぼすことのできるお方

 3つ目は、本当に恐れなければならないのは迫害する人ではなく、体もたましいも滅ぼすことができる神様である。しかもその神様は、私たちをかけがえのない者として覚えていてくださるお方であるということです(28-31節)。

28からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 「ゲヘナ」とは、「神様のさばきによって入れられる苦しみの場所」のことで、そこでは体もたましいも滅ぼされてしまいます。
 人々は弟子たちを迫害し、体を殺すかもしれません。しかし彼らは、弟子たちのたましいを殺すことができません。そのような人間を恐れてはなりません。恐れるのは神様だけです。神様は体もたましいも滅ぼすことのできるお方だからです。

29二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。30また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 神様はどんな小さいものでも目を留めていてくださいます。小さな雀さえ神様の手の中にあります。頭の髪の毛も数えられています。そのような神様であるので、人間など恐れる必要はないのです。
 「一アサリオン」は最小単位の銅貨です。1羽では値段がつけられない、それほど価値のないものでも、神様のみこころによらないでは地に落ちることがないのです。人間は、言うまでもなくたくさんの雀よりもすぐれた者です。
 髪の毛もそうです。その1本1本が数えられています。私たちは神様の愛の対象だからです。神様は、私たちの歩みをいつも見守り、支えていてくださいます。それほど価値のある私たちは、簡単に殺されることはないのです。

■天で覚えられている

 4つ目は、主イエスを人の前で証言したことは、天で覚えられているということです(32-33節)。

32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。33しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 迫害にあってイエス様を信じたかどうか、イエス様を伝えたかどうかを問われる時が来ます。私たちは、いつの日か天の法廷に立つのです。天の法廷でイエス様が私たちのためにする証言は、私たちの地上での証言にかかっているのです。

ヨハネの黙示録20:12、15「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。……いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 私たちは、「いのちの書」に名前が記されている者たちです。私たちは、イエス様の十字架によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられるという約束をいただいるのです。
 私たちは、迫害の場に立ったならば証言できるだろうかと恐れることはありません。私たちはこの生涯で、神様に従って歩む時にさまざまな約束と祝福と、そして神様からの守りが与えられているからです。

マタイの福音書10:19−20「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。20というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」

 イエス様は、ペテロに信仰がなくならないように祈ってくださいました。

ルカの福音書22:32「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」

 イエス様は、私たちのためにも祈ってくださり、今は天において私たちのとりなしをしてくださっているのです。

ヘブル人への手紙7:25「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

 私たちは何も恐れることはありません。神様が何重にも私たちを守ってくださるからです。今日もそのことを覚えて、神様に近づいていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年3月13日