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2011年3月20日 主日礼拝説教
「主イエスを受け入れる者」(マタイの福音書10章34節〜42節)
10章は、イエス様の弟子たちが宣教に出て行く前に、イエス様が与えた注意事項をまとめていました。伝道はどう始めるのか。そこには迫害があるかもしれない。しかし恐れてはいけませんと語ってきました。今日は弟子たちが語ったことを信じた人たちがどういう歩みをするのか、その心構えを語ります。
1つ目は、自分にとって最も大切なものを捨てても主イエスに従うようにということです(34-38節)。
34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
イエス様は、ご自分がこの世界にやって来られた目的を明らかにされました。それは「平和」のためではなく「剣をもたらす」ため、争いを生じさせるために来られたというのです。
救い主は平和をもたらすと預言されていました。
イザヤ書9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
このように預言されていた平和の救い主であるイエス様が来られたのに、どうして剣がもたらされたと言うのでしょうか。それは、究極的には救い主によって平和が訪れるのですが、イエス様が来られ、イエス様の教えを伝える時に、まず剣を投げ込むような状態になるというのです。
確かにイエス様の到来によって、ユダヤの指導者たちとの軋轢が起こりました。この地にイエス様が来られたことで真理が示され、人々の罪が明らかにされました。それを認めない人たちにとっては、主イエス様の教えは受け入れがたいことでした。
特に初めて福音が伝えられていく時、パウロがギリシヤやローマに伝えた時、あるいは初めて宣教師が未開地に訪れて福音を伝えようとする時、今までの社会秩序を変え、イエス様の愛の教え、平和の福音が入り込む時、そこに剣が投げ込まれたような混乱が起きたのでした。
自分が正しいと思っている人は、イエス様への憎しみが起こりました。しかし自分が罪人であると認めた人は、イエス様を救い主として受け入れました。こうしてイエス様を信じる人とそうでない人との間に剣がもたらされ、争いが起こったのでした。それは、家族のような親しい間柄の中にも起こる争いであり、敵意でした。
35なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。36さらに、家族の者がその人の敵となります。37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
すでにイエス様は、弟子たちに対して、家族との間に対立が生じることを話されました。
マタイの福音書10:21「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。」
イエス様は伝える者たちだけではなく、それを聞いて信じた人たちにも同じようなことが起こるのです。聖書は両親、家族を愛し、敬うことを教えています。
エペソ人への手紙6:1−2「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。」
テモテへの手紙第1、5:8「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」
どのような親しい間柄であっても、家族であっても反対があるかもしれない。その時にイエス様の信仰を守るようにと教えたのでした。
心構えの2つ目は、十字架を負ってキリストについて行くようにということです(38-39節)。
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
処刑される人は死刑場に向かうまで、見せしめのため自分が架けられることになる十字架をかついで行かなければなりませんでした。「十字架を負う」とは自分のいのちを失う者の姿でした。
イエス様のために「自分のいのち」を捨てないで、自分のいのちを救おうとするならば、結局は自分のいのちを失うことになります。そうではなく、イエス様のために「自分のいのちを失った者」は、自分のいのちを受けることになるのです。
いのちとは、永遠のいのちを受けることです。私たちのいのちについてこのように言うことができるのは、神様が私たちに永遠のいのちを下さるからです。
心構えの3つ目は、主イエスが遣わされた者を受け入れることは、イエスご自身を受け入れることであり、遣わされた者と同じ報い・祝福を受けるということです(40-42節)。
40あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
伝える者には、様々な困難、迫害が伴います。そのような中で弟子たちのことばを受け入れた者は、同じ危険にさらされることになるのです。しかしそれは、イエス様を受け入れ、またさらにイエス様を遣わした父なる神様を受け入れることになるのです。
使徒たちはイエス様によって任命され遣わされます。イエス様ご自身も父なる神様から、この世に遣わされたお方でした。使徒たちは、このイエス様が父から受けた使命を分担して担う者たちです。
使徒たちだけではなく、すべての伝道者、イエス様の教えを伝えようとしている者たちもそうなのです。
41預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
伝道者は、イエス様の教えを受け、伝える者ですから預言者です。また、伝道者はイエス様を信じて義とされたことを伝え、自らその道を歩もうとしているので義人でもあります。
その預言者、義人を受け入れる者たちは、神のことばを聞いたひとりひとりです。聞いて信じた人たちは、伝えた者たちが受ける報いと同じ報い、祝福を受けるのです。
42わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
イエス様の弟子たち、神様から遣わされた者たちは、「この小さい者たち」と言われるほど欠けだらけの者であるかもしれません。そのような「小さい者たち」を、神様のことばを伝える預言者、義の道を説く義人として受け入れるならば、その人たちも神様から報いを受けるのです。
そして彼ら伝える者に「水一杯でも飲ませるなら」という行為を神様は見てくださるのです。これは、この地方ではだれもがしなければならない当たり前の行為でした。
彼らの話を聞き、それを受け入れるだけではなく、積極的に水一杯でも差し出すなら、その者は報いを受け、キリストの家族として福音を伝える働きにかかわることができるのです。
教会に遣わされている牧師・伝道者は、福音を聞いて神の家族となった人たちから「水一杯」のささげものを受けて、神様の教えを伝え続けていくことができるのです。
イエス様の教えを伝えていく。聞いた人たちがイエス様の十字架による救いを信じて、洗礼を受ける方たちが与えられていく。その働きに、ひとりひとりがかかわっているのです。
そして、伝える者も、それを支えて「水一杯」をささげる人たちも、神様から、同じ報い、同じ祝福を受けられるのです。
コロサイ人への手紙3:23−24「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
伝える者も、伝えられた者も、同じ主からの報い、天の御国を目指して歩みたいと思います。
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