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2011年4月3日 主日礼拝説教
「天の御国に入る人たち」(マタイの福音書11章7節~15節)
先回はイエス様は、投獄されていたバプテスマのヨハネから「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」という質問を受けて、イエス様が救い主として預言されていたみわざを行っていることをそのままヨハネに伝えるようにと、ヨハネから送られてきたヨハネの弟子たちに答えました。バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス様からの答えをいただいて、牢獄にいるヨハネのもとに帰っていきました。イエス様につまずきかけていたヨハネは、それによってはっきりとした信仰の確信へと導かれたのでした。
イエス様は、群衆にヨハネの偉大さを話し始めました。
7この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。8でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
群衆はヨハネがヨルダン川で行っていた悔い改めの説教と、それに基づく洗礼を知っていました。
マタイの福音書3:5-6「5さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
あなたがたはヨルダン川に何を見に行ったのですか。ヨルダン川に生える風に揺れる葦を見に行ったのですか。「風に揺れる葦」とは律法学者のことを言ったのでした。
律法学者は、「風に揺れる葦」のように、ふらふらと揺れる葦のような生き方をしていました。彼らは、自分たちに定まった意見を持っておらず、さまざまな解釈によって振り回され、教えも行動も首尾一貫していませんでした。
ヨハネは、それとは違っていました。黒白をはっきり語り、たとい相手が王であろうと、その罪を指摘し、悔い改めを迫ったのでした。
王宮にいる人ではなく、らくだの毛で作った服を着て、皮で帯をし、いなごと野蜜を食べていた預言者ヨハネに会うためであったでしょう、と言うのです。
9でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
確かにヨハネは「預言者」でした。しかも預言者以上の者であったのでした。
第1に、ヨハネは最後の預言者だからでした。預言者は、神様のことばを聞いて、それを人々に伝える人です。多くの預言者によって、救い主が来られる預言がなされてきましたが、ヨハネは最後の預言者として、救い主の直前にやってきて、この方が救い主あると告げたのでした。
第2は、ヨハネは救い主のために道備えをしたからでした。
10この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
イエス様は聖書のことばを引いて、そのことを示されました。
出エジプト記23:20「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。」
マラキ書3:1「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」
11まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
イエス様はヨハネについて、さらに最大限の評価をされました。救い主を直接指し示した預言者として、それまでに生まれた人間、その時代に生きていた人間も含めて、ヨハネが「女から生まれた者」で最もすぐれた者としたのでした。
けれどもイエス様はさらに、御国を自分のものとすることができた人はヨハネより偉大であり、その御国のすばらしさを人々に伝えるものとなった人は、その使命のゆえにヨハネより偉大であるとしたのでした。
12バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
さらにイエス様は、「天の御国は激しく攻められています」、「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と言われました。
これは新約聖書中で、難解な箇所の一つといわれる箇所です。バプテスマのヨハネが現れてから今日まで、つまりイエス様が今語っているその時まで、「天の御国は激しく攻められている」というのです。
これを肯定的にとるか否定的にとるか、いい意味か悪い意味かで解釈が分かれるところです。
悪い意味なら、イエス様に対して反対を唱える人が現れ、天の御国が激しい攻撃にさらされていることになります。ヨハネは捕らえられ、イエス様がユダヤ教の指導者や民衆から受け入れてもらえない状況を指しています。
一方、これを肯定的、いい意味でとらえるならば、御国は熱心に求められ、その人たちのものになっているということになります。
ルカの福音書ではこう言われています。
ルカの福音書16:16「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」
それまでの受け身的な信仰から、イエス様が来られてからは、積極的に自分のものとするために、熱心に求め、無理にでも入ろうとする人たちが現れてきたのでした。
13ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。14あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
ヨハネ以前、旧約の時代は天の御国の到来を預言していました。ところがヨハネは、天の御国が始まったこと、そしてイエス様こそがその御国の主であることを示しました。しかも、ヨハネは、旧約聖書最後に預言されていた「エリヤ」だったのでした。エリヤとは、偶像礼拝に走った王と国民に偶像を捨て、まことの神に帰るようにと迫った旧約聖書を代表する預言者です。
マラキはイエス様の時代から400年前に現れた旧約聖書最後の預言者で、そのマラキが語った最後のことばがこれでした。
マラキ書4:5-6「5見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。6彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」」
イスラエルの人々はそのエリヤがいつ来るのか、もう来るだろうと待ちあぐねていました。そのエリヤはもう来ていたのでした。旧約聖書の、救い主がやってくるという預言はヨハネの出現で終わり、新しい時代が始まったのでした。
15耳のある者は聞きなさい。
何千年もの間、預言者を通して人々に知らせ続けていたこと。その正しさは、まずヨハネの出現で明らかになり、ヨハネの道備えによってイエス様がやって来られました。
その時から天の御国は激しく攻められているように状況になりました。救いを受けたいという人たち、待ち望んでいた救い主がやってきたことを知った人たちが、熱心に求め始め、自分のものとし始めていたのでした。
それを受け入れない人たち、傍観者として立っている人たちも多くいました。しかしそれも、イエス様の行おうとしていることで、はっきりする時が来るのでした。
それがイエス様の十字架と復活でした。そして、それを信じた者たち、天の御国を奪い取ることができた者たちが、生き生きと歩み始めていたのでした。
ルカの福音書17:21「神の国は『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」
イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦され、神の子とされ、神の国が私たちのものになりました。そのことを感謝して、今日の聖餐式を受けたいと思います。
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