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2011年4月24日 主日礼拝(イースター)説教
「安息日の主」(マタイの福音書12章1節〜8節)
イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われました。イエス様が語られた当時、重荷を負わされて重いくびきを負わされていた人々は、社会から差別されていた人たち(取税人など職業の差別されていた人たち、病によって差別されていた人たち、女性たち、子どもたち)でした。イエス様はそのような人たちを選ばれ、天の御国への道を示されたのでした。
それらの人たちは、またユダヤの律法による大きな重荷、くびきともいえるものを負わされていました。それが12章から出てくる安息日を守るという律法でした。
イエス様は、神の奥義は幼子に示され「賢い者や知恵のある者」には隠されていると語りました。その「賢い者や知恵のある者」である律法学者、パリサイ人との対立が決定的になっていくのも、この安息日に対する理解の違いからでした。それは、イエス様がこのことを通してご自分を神の子と等しい者としたからでした。
1そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。2すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
ある安息日に、イエス様と弟子たちは麦畑の中を通っておられました。イエス様の弟子たちは、このとき「おなかがすいて」いました。よほど長い間食べていなかったのか、あるいは食べられなかった状態が続いていたのでしょう。弟子たちが麦の穂をつんで食べ始めました。それをパリサイ人たちが見ていて、とがめたのです。
黙って人の畑に入り、麦の穂をつんで食べたことがいけなかったのではありません。「麦の穂を摘む」ことは、ユダヤ社会では許されていたことでした。これはユダヤ社会で、貧しい人や飢えた人を助けるための律法でした。だから、おなかがすいていた弟子たちが麦の穂をつんで食べたのは、決して悪いことではありませんでした。問題は、それが安息日であったことでした。
安息日を守ることは、モーセの十戒の第4に規定されていて、ユダヤ社会では特に重んじなければならない律法でした。
出エジプト記20:8−10「8安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」
この律法を、実際どのように守っていくのかという決まりが作られていました。その中に、麦を収穫すること、麦を脱穀することがありました。弟子たちが麦の穂をつんだのは収穫したこと、手でもんだことは脱穀をしたことと見なされたのでした。
それに対して、イエス様は答えられました。
3しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。4神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
これは、サムエル記第1、21:1−6に記されている出来事です。おなかがすいていたダビデと家来たちが、神殿にささげられていたパンを祭司からもらって食べたのでした。このパンは祭司だけが食べることを許されていたものでした。
イエス様は、ダビデがおなかをすいた時に食べたこと、それは律法に違反していたことでしたが、さほど問題にされていなかったのに、なぜイエス様の弟子が安息日におなかがすいて麦を食べたからといって、重大な罪を犯したと言うのですかと問いかけたのでした。
もう1つ、イエス様は例を出します。
5また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。6あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
安息日にも宮にいて働いていた祭司たちたちは、安息日の規定には触れなかったのでした。祭司は、安息日に神様に礼拝する行為を助ける働きとして認められていたからでした。
イエス様が言いたかったことは、神殿にいる祭司が安息日の規定に触れないのであれば、イエス様は「宮より大きな者」であるので、その弟子たちはイエス様に仕える者たちであり、これら祭司と同じように安息日の規定に制限されることはないと言われたのでした。
イエス様はホセア書のことばを引きます。
7『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
ホセア書6:6「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」
宮を通して生けるまことの神様を礼拝するとき、神様は、どのようないけにえをささげるか、どのような方法でささげるのか、それが安息日でなければならないかなど問わない。大切なのは心からの礼拝であるとホセアは教えたのでした。
イエス様の弟子たちは神の子であるお方と歩んでいます。今まで宮で礼拝されていた神様が、直接この世にお生まれくださったのでした。弟子たちは、イエス様に従おうと共に歩んでいる者たちでした。イエス様は、そういう歩みをするイエス様の弟子たちこそまことのイスラエルの民であり、安息日に奉仕している祭司以上の者であると語ったのでした。
8人の子は安息日の主です。」
「人の子」とは、イエス様がご自分を指すとき使われたことばです。安息日の主とは、イスラエルをエジプトから導いた主なる神様です。
イエス様は「宮より大きな者」と言って、ご自分が神であることを示したのと同じように、ここでも「安息日の主」と言って、ご自分が神であることを宣言したのでした。
「人の子は安息日の主です」という宣言は、イエス様ご自身が安息日を、新しく土曜日から週の初めの日、日曜日に変えたことに現されました。私たちはその日を主イエスの日、主の日と呼ぶのです。
「週の初めの日」はイエス様が死んでから3日目に復活された記念の日です。毎週私たちは、復活の主を覚え、イエス様を礼拝するために教会に集まっております。復活の主イエス様を礼拝することが、「人の子は、安息日の主です」と言われたイエス様のみこころです。
イエス様の復活は、それが事実であったことを多くの人によって証言されています。
コリント人への手紙第1、15:3−8「3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。7その後、キリストはヤコブ(主イエスの弟)に現れ、それから使徒たち全部に現れました。8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)にも、現れてくださいました。」
弟子たちは日曜日ごとに、復活されたイエス様が共にいてくださる礼拝を守るようになりました。週の初めの日、日曜日にイエス様が復活されたことを覚えて、私たちは2000年にわたって礼拝を守ってきました。
「安息日の主」と宣言されたイエス様。土曜日の安息日から、日曜日の主の日に変えられたイエス様。その日は重荷ではなく、くびきをつけられるようなものではなく、喜びと感謝の主の日となったのでした。
今日イースターの日を迎えました。
イエス様が私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えるため、十字架で死んで、3日目によみがえられたことを覚えて、これからも毎週、主の日である日曜日に礼拝をささげたいと思います。
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