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2011年5月1日 主日礼拝説教
「手を伸ばしなさい」(マタイの福音書12章9節〜21節)
先週、イエス様の弟子たちが安息日に麦を摘んで食べたことから、イエス様とパリサイ人との対立が現れました。今日の9節からの箇所も、安息日をどう守るかが問題になってきます。これもイエス様が「安息日の主」であることを示す出来事でした。このことを通して、ユダヤの指導者たちがイエス様を殺そうと思うようになっていくのです。
9イエスはそこを去って、会堂に入られた。10そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。
「そこを去って」とあるので、麦畑からすぐに会堂に入って行かれたようにみえますが、ほかの安息日の出来事でした。
ルカの福音書6:6「別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。」
麦畑での論争に敗れたパリサイ人たちが、今度は会堂で待ち受けていたのです。イエス様は、安息日に礼拝をささげるため会堂に入って行かれました。そこに「片手のなえた人」がいました。会堂にいた「パリサイ人たち」は、この人に同情することなく、イエス様と安息日について論議する材料にしたのでした。パリサイ人たちの関心は、安息日の規定にイエス様が違反するかどうかだけでした。
安息日には医療行為も許されていませんでした。手を当てるとか、床を取り上げさせるとか、医療行為はそのような行為を伴うので、安息日に労働をしてはならないという規定に触れたのでした。しかし、そうは言っても、いのちにかかわる病気については、治療してはいけないとは言ってなかったのでした。
「片手のなえた人」は、今日治さなくても特にいのちにかかわることはありませんでした。ですから、パリサイ人の答えは「いいえ」でした。しかし、イエス様のこれまでの言動からすると、この片手のなえた人を治すに違いないとパリサイ人たちは見ていたのでした。
イエス様は、安息日にこの人をいやせば訴えられることをご存じでした。同時にイエス様は、この「手のなえた人」の願いを知っておられました。そこでイエス様は、逆にパリサイ人に質問されました。
11イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
これについては、羊はけがをしているかもしれない、死んでしまうかもしれないということで助け出すことができたのでした。羊に対する規定はかなりゆるやかでしたが人間には厳格でした。
12人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
イエス様は、助けたいものが羊か人かで判断するのではなく、また病気治療を安息日に行ってよいかではなく、その行為が良いことかどうか。良いことならば、安息日に良いことをするのは正しいことではないかと問いかけたのでした。
良いことは神様の願っておられることでした。神の子であるイエス様がそう願っておられたのでした。彼らは、その問いに対して答えることができませんでした。
13それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
この人が、イエス様のことばを信じて、「手を伸ばすと」主のみわざがこの人に現れました。イエス様の言われたとおり、手を伸ばすことができると信じて手を伸ばした時、彼の手がいやされたのでした。
14パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
パリサイ人たちはイエス様の教えに言い返すことができませんでした。しかもイエス様は何ら医療行為を行いませんでした。イエス様はことばだけで、片手を治してしまわれたのでした。
5節「宮よりも大きな者」、7節「安息日の主」と宣言されたことと同じように、ここでもご自分を神として行動されたイエス様でした。これは、十戒に違反することでした。
出エジプト記20:3「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
これに違反することはユダヤの教えの最も重い罪でした。この時から、イエス様を殺そうとする計画が動き始めたのでした。
15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、16そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
イエス様はしばらく身を引こうとされましたが不可能でした。多くの人たちがイエス様を追ってついてきたのです。イエス様は病人を見捨てることはなさらず、「彼らをみな」いやされました。
イエス様は、いやされた人たちに「ご自分のことを人々に知らせないように」と戒められました。イエス様の時、十字架の時がまだ来ていなかったからでした。
イエス様に対してパリサイ人たちがイエス様を殺そうと謀り始めたことと、それでもイエス様についていき、いやされ救われていく人たちが起こされました。
これらの中にイエス様が「主のしもべ」として預言されていた救い主であること、そして救いが選ばれた民ユダヤ人から、救いを求めている異邦人、全世界へと伝わっていく。そう預言したイザヤ書41章のことばが成就したとマタイは書き記しました。
17これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。18「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
しもべは「わたしの愛する者」であり、神の霊によって救い主としての知恵と力が示されます。これはイエス様の洗礼の時に明らかになりました。しもべは「異邦人に公義」をもたらします。救いとさばきのことばは全世界に及ぶのです。
マタイの福音書3:16−17「16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」」
19争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
しもべは静かに平和のうちに、その使命を全うされます。武力に訴えることなく、自分を犠牲にしてそれを成し遂げるのです。
20彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。21異邦人は彼の名に望みをかける。」
しもべはこの世で無視されている人たち、「いたんだ葦、くすぶる燈心」のような弱い人たちに目を注がれます。主イエス様はこのようなお方であられました。イエス様は、十字架への道を進んで行かれました。それは、私たちを愛し、あらゆるもの束縛から解放して、罪や悲しみ苦しみのない新しいいのちに導いてくださるためでした。イエス様の死によって、私たちは罪赦され、新しいいのちの喜びに生かされる者となったのです。
今日も、イエス様は私たちに、「信仰をもって手を伸ばしなさい」と呼びかけておられます。
イエス様は「いたんだ葦、くすぶる燈心」のような私たちに心をかけてくださり、十字架の死をもって救い出してくださるのです。
イエス様の救いは、全世界へと広がっていきます。
それは、自らを十字架にかけてまで、私たちを愛してくださった主の深い恵みに満ちた呼び掛けであり招きです。
マタイの福音書11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
その声に素直に聞き従い、信仰をもって歩んでいきたいと思います。
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