ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年5月8日


2011年5月8日 主日礼拝説教
「神の国は来ている」(マタイの福音書12章22節〜37節)

■はじめに

 2つの安息日にあった出来事を通して、イエス様はご自分が神として行動している姿をパリサイ人たちに示されました。パリサイ人たちは、イエス様を殺そうとし始めたが、それにもかかわらず多くの人々がイエス様のもとにやってきて、病をいやしていただきました。マタイは、それらのことがイザヤ書42章の預言の成就であったと語りました。
 さらにイエス様とパリサイ人たちとの対立が続きます。

■悪霊につかれた人をいやす―ダビデの子かベルゼブルか

22そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。

 イエス様が来られたこの時代は悪霊の働きが活発でした。イエス様は悪霊を追い出すことによって、この男の病をいやされました。

23群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」

 「ダビデの子」とは救い主の呼び方でした。群衆は、まだはっきりとはしませんが、このようなみわざをなさる人なら、もしかしてこの人は救い主かもしれないと、大きな驚きを示したのでした。
 しかし、そのようにイエス様を救い主として受け入れようとしていた群衆に対して、その熱を冷まそうとして、パリサイ人はイエス様が「ダビデの子」、救い主ではないことを示そうとしました。

24これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

 パリサイ人たちは、群衆の「ダビデの子」かもしれないという反応に、そうではない。救い主ではなく、悪霊のかしらなのでこのようなことができると群衆たちに説得し始めたのでした。

■神の国はすでに来ている

25イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。26もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。

 イエス様は2つのたとえをもって反論します。1つは、国や町や家が内部分裂を起こせば、それらは立ち行かないということです。サタンも例外ではありません。悪霊のかしらであるサタンが自分の手下である悪霊を追い出しているのなら、それは仲間割れしていることになります。神様がサタンを追い出すことはあっても、サタンがサタンを追い出すことはありえない。そんな自滅的なことはしないというのです。
 2つめは、パリサイ人の中にも悪霊追放をする者がいたことからの反論でした。

27また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。

 当時、悪霊を追い出しているのはイエス様だけでなく、「あなたがたの子ら」と言っているように、パリサイ人の中にもいたのでした。もし悪霊追放がベルゼブルによってであるならば、悪霊を追い出しているパリサイ人たちもベルゼブルによって追い出しているのであり、そのパリサイ人が今度はあなたがたを告発することになるだろうというのです。
 パリサイ人の悪霊追放がどのようなものであったのか、確かに悪霊を追放していたのかについてはよくわかりませんが、イエス様が悪霊を追い出しているのは確実なことであり、それを見ていた群集も「ダビデの子」ではないかと言ったほどの鮮やかさであったので、イエス様の悪霊追放は神の力によるのであり、神の国が来ていることになるというのです。

28しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 イエス様は、父なる神様の御霊を受けておられ、イエス様の働きは、その御霊によって進められていました。神の国がもうここに来ていたのでした。イエス様は、すでに神の国が来ていることを説明するために、泥棒のたとえを使われました。

29強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。

 家に押し入ったならば、まずその家で一番強い人を捕まえ縛り上げてから仕事にかかります。同じようにイエス様もまた、まず悪霊のかしらであるサタンを縛り上げたのです。だから悪霊を追い出すことができるのと語るのです。
 それは、イエス様が悪魔の誘惑に勝たれたことと、イエス様の働きによって悪魔の働きが制限されたことに現されました。イエス様はこう証言されました。

ルカの福音書10:18「イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。」

 このように神の国は始まっていたのですが、パリサイ人たちは、そのことを見ることができなかったのでした。

■御霊に逆らう冒涜

30わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

 イエス様を前にして中立はなく、味方か逆らう者か、神の国に人を集めようとする者かイエス様のもとにいる者たちを散らす者かであるというのです。イエス様は、ここまでの議論から改めてパリサイ人に向かいます。あなたたちパリサイ人はどちらなのか。あなたたちは、イエス様に対して反対する者であり妨害する者であり「御霊に逆らう冒涜」を犯している者であると迫ります。

31だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。32また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 「人はどんな罪も」「どんな冒涜も」また「人の子に逆らうことばを口にする者でも」赦されます。その罪を悔い改め、イエス様の十字架の贖いを信じれば赦されるからです。しかしパリサイ人が犯した「御霊に逆らう冒涜」は赦されないのです。
 イエス様があえてパリサイ人たちに「御霊に逆らう冒涜」を犯していると語ったのは、彼らが、イエス様が御霊の働きによって悪霊を追い出しているのが明らかなのに、それを悪霊のかしら、サタンの働きと断定したからでした。まさにパリサイ人たちは、永遠に赦されない「御霊に逆らう冒涜」を犯したのでした。
 パリサイ人がそのような罪を犯したこと、それは心にある悪から出たことであると語ります。

33木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

 イエス様は木と倉のたとえから、パリサイ人がそのことばによってさばかれることを示されました。悪い心から悪いことばが出てきます。人は心に満ちているものからあふれ出るように語ってしまうのです。

36わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

 パリサイ人は、いつの時かさばきの座につくことになります。そのとき、地上で行ったことについて「言い開きをしなければなりません」。
 パリサイ人は、神のさばきの前で何気なく言ったことばであると弁明するかもしれません。パリサイ人がイエス様に言ったことばは、その心にイエス様を殺そうと思っていたこと、そこから出てきたことばであったのでした。その心から出た「御霊に逆らう冒涜」のことばは決して赦されないとイエス様はおっしゃったのでした。

■聖霊によって救われた者たち

 聖霊は、その人を救いに至らせる過程で罪を自覚させ、主イエスが救い主であり、私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえられたことを信じさせる働きをしています。

ヨハネの手紙第1、4:2「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

コリント人への手紙第1、12:3「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」

テトスへの手紙3:5「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」

 私たちは聖霊の働きによって救われました。その聖霊の働きを故意に拒むならば、その人は悔い改めることができず、イエス・キリストが私たちの救い主であることを信じることができません。
 パリサイ人も、イエス様が悪霊を追い出すというみわざを見ていました。イエス様のみわざを見、イエス様のおことばを聞いた時に、彼らにも「このお方は神の子である」という御霊の内なる導きがあったのでした。それを彼らは、御霊の導きに従わないで「イエスはサタンのかしら、ベルゼブルだ」と言い続けたのです。
 彼らはそのままの道を進んでいきました。たどり着いた所は、神の御子キリストを捕らえ、十字架で殺すことでした。
 私たちはイエス様がおいでくださったことによって、神の国が始まったことを信じることができました。私たちは聖霊の働きを受け入れ、悔い改め、イエス様の十字架を信じ、救いに入れていただきました。
 私たちは、今日も、神の国はイエス様によって始まり、神の国に入る道はイエス様によって敷かれ、そこを歩むようにと聖霊によって導かれ、そこを今歩んでいることを感謝いたします。これからも、私たちの内にすでにいてくださる御霊に導かれ、神様の恵みを精いっぱい信仰生活の中で味わいたいと思います。


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