ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年5月29日


2011年5月29日 主日礼拝説教
「神の家族」(マタイの福音書12章46節〜50節)

■はじめに

 12章の最後になりました。もう一度12章全体を見ておきます。
 第1に、パリサイ人との安息日についての論争でした。それは、安息日に弟子たちが麦畑で麦の穂を食べていたこと、またイエス様が安息日の会堂で片手のなえた人をいやされたことから始まりました。そのことを通して、イエス様が安息日の主であり、神ご自身であることを証しされました。
 第2に、イエス様が悪霊を追い出されていることから始まりました。パリサイ人たちは、イエス様が悪霊のかしら「ベルゼブル」に取りつかれているので、悪霊を追い出すことができるとイエス様に迫りました。それをきっかけにしてイエス様は、どんな罪も赦されること、しかし「聖霊に逆らう冒涜」、聖霊の内なる声に耳を傾けない者は永遠に赦されないことを示されました。
 第3に、パリサイ人たちがイエス様に救い主としてのしるしを求めたことでした。そこでイエス様は、ヨナが三日三晩魚の腹の中にいたことをしるしとして示され、よみがえり、復活こそ最大のしるしであることを示されました。
 これらのことを通して、この時代はイエス様を信じようとしない「邪悪な時代」であることを示されました。
 そして12章の最後は、イエス様の家族について語られます。まことにイエス様を神の子救い主として信じる者とはどういう者であるかを語ります。

■イエス様の家族

46イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。

 イエス様がお話ししておられる時、イエス様の家族が訪ねてきました。イエス様の家族構成はこのようでした。

マタイの福音書13:55−56「55この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。56妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。」

 父ヨセフの名がありませんので、すでに死んでいたと思われています。家族全員でイエス様に会いに来たのでした。それは、イエス様が「気が狂った」と言う人たちがいたので、心配でナザレから様子を見に来たのでした。

マルコの福音書3:21「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。」

 来てみると大勢の人々と話をしている。パリサイ人・律法学者たちと、悪霊を追い出すことについてやり取りをしている。そのようなところに出くわしたのでした。
 イエス様のお母さんのマリヤは、イエス様の誕生前に、イエス様が神様から遣わされた救い主であることを知らされていました。マリヤは、イエス様が聖霊によって宿ったという奇蹟に直接かかわりました。しかし兄弟たちは、イエス様が神の子であることを信じていませんでした。

ヨハネの福音書7:3−5「3そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。4自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」5兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」

 動機はどうあれ、結果としては、家族からの呼び出しはイエス様の働きを中断させるものでした。

47すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」48しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

 取り次いだ人も周りにいた人もびっくりしたでしょう。イエス様のことばは思いがけないものでした。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
 イエス様は、ご自分の家族を思う心にあふれていました。イエス様は、お父さんのヨセフの死後、一家の働き手の柱として家族と共に住み、家業である大工の仕事をし、彼らの生活を支えたと言われています。
 イエス様が十字架にかかられた時は、自分のいない後、母マリヤの行く末を心配して、弟子のヨハネにマリヤの生活を託したのでした。
 イエス様がおっしゃりたかったのは、イエス様の弟子たちは互いに父母、兄弟姉妹の間柄のような近しい関係になるということ。そして、互いに家族のように愛し、励まし、支え合う関係になった。イエス様はそう教えたかったのでした。
 そして、ご自分のまわりに座っていた人たちに言われました。

49それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

■父のみこころを行う者

50天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 このとき、イエス様を取り巻いてイエス様のおことばを聞いていた人たちがいました。イエス様が「わたしの兄弟、姉妹、また母」と言われた人たちは、このイエス様のおことばを聞いている人たち、さらに父なる神様のみこころを行う人たちでした。彼らは、神様が遣わされたイエス様を救い主として認め、イエス様に従おうとしている人たちでした
 イエス様は父のみこころについて、こう言われました。

ヨハネの福音書6:39−40「39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」」

 イエス様は、この世の家族関係だけでなく、主にある霊的な家族関係も大切にするように教えられました。主にある家族は、地上で終わるものではなく、永遠に続くものだからです。
 また、イエス様がご自分の家族に対して、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか」と言われたのは、外に立っている自分の家族に、傍観者のようにしているのではなく、この中に入って神のみこころを行う人になるように、ここにいる人たちと信仰による兄弟姉妹となるようにと伝えたのでした。それがイエス様の願いでした。
 その願いのように、一番目の弟のヤコブは、イエス様の復活後イエス様を自分の救い主として受け入れ、始まったばかりのエルサレム教会の指導者の一人となるのでした。このヤコブが「ヤコブの手紙」を書きました。また4番目の弟ユダも、後に「ユダの手紙」を書く人となるのでした。

■神の家族

 パウロは、イエス様のおことばと同じように、クリスチャンは「神の家族」の一員であると語りました。

エペソ人への手紙2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

 教会は、最初ユダヤ人を中心に始まりました。そこに他国人とか寄留者と言われる異邦人たちが教会に加わってきました。さらに男女の差、貧富の差、社会的階級の差がありました。当時は奴隷という階層が存在していました。
 それで、教会内でも礼拝の場や、食事の時に差別があったことが、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ヤコブの手紙などから知ることができます。
 キリストは十字架によって、すべての罪、すべての敵意を廃棄してくださり、平和を与えてくださいました。私たちは、キリストの十字架によって罪赦され、神の国の民としていただきました。イエス様を信じる者たちは、その信仰によって、神様を「アバ、父」と呼ぶことができ、神様に近づくことができるようになったのでした。だから神様を父と呼び合う者同士、クリスチャンは互いに兄弟姉妹というわけです。
 また、このように言われています。

ローマへの手紙8:29「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

 神の家族とさせられるために私たちは、神様にあらかじめ知られ、定められていたこと、そして私たちはイエス様を神の家族の長子と仰ぎ、私たちが御子イエス様と同じ姿、イエス様に似るものとされていくのです。
 私たちは、どの教会の信徒であっても、イエス様を信じることによって、そのような神の家族、兄弟姉妹であることを感謝します。それは全世界のクリスチャンが持っている共通の思いです。
 クリスチャンは、神様のみこころによって召し出され、イエス様の十字架の福音を信じ、罪赦された同じ兄弟姉妹です。これからも、主にある兄弟姉妹として、共に教会での交わりを続けていきたいと思います。


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