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2011年6月5日 主日礼拝説教
「豊かな実を結ぶ」(マタイの福音書13章1節〜23節)
13章は、いろいろな所でイエス様が語られたたとえ話をまとめた章です。神の国とはどういう所なのか。あるいは神の国に入ろうとする者とはどういう人なのかを、いくつかのたとえ話によって語っています。
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
イエス様は家から外に出られると、イエス様の評判を聞いて、ひと目イエス様を見よう、そのお声を聞こうとする人が大勢ガリラヤ湖のほとりに押し寄せてきました。それでイエス様は舟に乗ってお話をなさいました。
お話の中に、「種がまかれた地面のたとえ」、あるいは単に「種まきのたとえ」と呼ばれているたとえ話がありました。
この種まきは2000年以上も前に語られたユダヤの農業のことなので、少しやり方が変わっています。耕す前に畑一面に種をまいて、それから鋤を入れたのです。種をつめた袋に穴をあけ、それを家畜に背負わせて歩きながら種をまくこともあったそうです。
ですから種が飛んで道端に落ちることもあります。耕せばまた畑になるところですが、先に鳥が来て食べてしまいます。畑の中には岩地もあります。そこにも種が飛んでいきます。ここに落ちた種は土が深くないので、すぐ芽を出しますが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまいます。いばらだったところに落ちた種もあります。いばらの根が残っていたので、後から茂ってきて芽を覆ってしまい、実を結ぶことができません。良い地に落ちて耕された所だけが実を結びました。
このたとえ話によって、イエス様が何を語ろうとしたのか。なぜすぐわかるようにお話をなさらないのか。弟子たちには理解できませんでした。
11イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。12というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。13わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
たとえ話は、イエス様が「あなたがた」と語りかけた弟子たちに「天の御国の奥義」を知らせるためでした。一方、イエス様が「彼ら」と言ったそのほかの人たちには、その奥義は隠されていました。それは、彼らが「見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしない」からでした。
「天の御国の奥義」とは、イエス様とはどういうお方なのか。神の国に入るには、神の家族になるにはどうしたらよいかの知らせです。
神のひとり子である救い主イエス・キリストが世に来られ、イエス様の十字架の死によって、信じるすべての人を罪と死から救い、神の国に入ることができるというものでした。そのことが、ある人たちには聞いてもわからないのでした。
イエス様のところに来た人たちは、イエス様に何を期待したでしょうか。病がいやされたい。飢えている人はパンを求めたでしょう。また、ローマの支配下にあったユダヤを独立に導いてくれるという期待もあったでしょう。そればかりか、イエス様に反対する勢力も生まれてきていたのでした。
このように、イエス様の周りにはたくさんの人が集まっていましたが、「さらに与えられて豊かになる」者と、「持っているものまでも取り上げられてしまう」者たちに分かれていくのでした。
それは、イザヤ書の預言が実現したことでした。
イザヤ書6:9−10「9すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
これは、神様がイザヤに民に語るように言ったことばです。イザヤによって神様のことばは語られていくが、それは聞いた人は、自分では何のことを言っているのか悟ることができない。かえって人の心はかたくなになり、神様のことばに聞き従うことができなくされるという預言でした。
たとえ話そのものは聞きやすいものなので、わかったつもりでもイエス様がおっしゃったこととは全く違う意味にとってしまい、本当に必要な神様の奥義、イエス様を信じるというところまで到達しないのです。
傍観者でいるかぎり、ますます天の御国に入るにはどうしたらよいのかがわからないままになってしまいます。しかし求める者にはますます神様の奥義を自分のものとし、神の家族となっていくのです。
そのことを見ることができた人、聞くことができる人は幸いでした。旧約の預言者たちはみな、救い主に会いたいと願っていたからでした。
17まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
イエス様は、弟子たちにたとえ話を説明してくださいました。
18ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。19御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
種は「御国のことば」です。種をまくとは「御国のことば」を伝えることです。様々な土地は「御国のことば」を聞いた人たちでした。
みことばが道ばたにまかれた人というのは「悪い者」、サタンが来て、みことばを奪い取られてしまう人です。
20また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。21しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
みことばが岩地にまかれた人とは、困難や迫害にあうとつまずいてしまう人です。
22また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
みことばを聞いてはいるのですが、いろいろなことに惑わされて、結局は実を結ばない人たちです。
23ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
みことばが良い地にまかれた人は、芽を出し、育って、100倍、60倍、30倍の実が結ばれるのです。これが、神の奥義を知らされ、それを信じて、天の御国に入れるようにされた者、神の家族とされたものの姿です。
イエス様は別の所で、たとえを使って豊かな実を結ぶことを語られました。
ヨハネの福音書15:5「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
これらのたとえは、イエス様が私たちに、道ばたや、岩地やいばらの地にならないで良い地になるように、あるいはぶどうの木につながっている枝になるように努力しなさいと教えているのではありません。
私たちの歩みは、神様のご計画のまま必ず実現し、豊かな実を結ぶ。これが聖書の教えであり約束です。たとえ私たちが弱く、罪に誘惑され、世が敵対し迫害しても、やがて時が来れば、私たちは「百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍」の実を結ぶことができるのです。
神様のことばには力があります。神様が種をまかれた私たちのこの良い地を、いつも見守っていてくださいます。私たちは、神様がいつくしんでくださっている良い地ですから、神様にお任せし、豊かな実を結ばせていただきたいと思います。このような幸いを与えられている人は、神様の目から見て、すでに「豊かな実」を結んだ人であり、神様の恵みと祝福に満ちた人生を歩んでいる者たちです。
そのような者とされたことを感謝して、神様がくださった平安の中を、「安きよ、奇しき安きよ」(新聖歌246)と歌いながら、これからもイエス様に従って歩んでいきたいと思います。
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