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2011年6月26日 主日礼拝説教
「すばらしい発見」(マタイの福音書13章44節〜46節)
13章はたとえ話を集めた章でした。全部で7つありますが、そのうち4つを見てきました。種がまかれた地面のたとえ、毒麦のたとえ、先週は3つ目と4つ目のからし種のたとえ、パン種のたとえでした。神の国とは教会であり、私たちのことでもありましたが、最初は小さく見えても、それは大きく、生き生きと広がっていくことを覚えました。今日は5つ目と6つ目を見ることにします。
44天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
この時代、財産は金庫や倉に納めるだけでなく、戦争による侵略、また泥棒などから財宝を守るため地面の中に隠しておきました。
さて、だれかが大事な宝物を自分の畑の中に隠しておきました。しばらくたって、この人はそのことをだれにも告げないまま死んでしまい、畑は宝物を埋めたまま別の人の手に渡ってしまいました。この土地の持ち主から任された小作人が、この畑を耕していると、偶然この宝物を見つけたのでした。
今ですと、このように発見し、宝物を埋めた人がだれであったかわからない時は、発見者と土地所有者で分けることになります。
この当時は、出てきた宝物は発見者ではなく、すべて土地の所有者のものとなりました。ですから、彼はその宝物をこっそり持ちかえることをせず、その宝物をそのまま畑に埋め戻して、その畑を買うという正当な手続きを経て宝物を自分のものにしようとしました。彼は「持ち物を全部」、手持ちの財産全部をはたいて畑を買い取りました。
天の御国はこのような宝物のようだというのです。天の御国は、人が地上で持っている物すべてを売ってでも手に入れる価値のあるであることを教えています。
パウロは、自分が手にした宝物がいかにすばらしいものであったかをこのように言いました。
ピリピ人への手紙3:7−8「7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
畑を耕していた人は、ほかの人にとっては何でもない畑の中から、幸運なことに、すばらしい宝物を発見できました。このことはいろいろ当てはめることができるでしょう。とにかく読んでみようと手に取った聖書、あるいは偶然入った教会などもそうでしょう。
イエス様はある時、弟子になろうとする時のことをこう教えられました。
マタイの福音書16:24−25「24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
「自分を捨てる」、「いのちを失う」と読む時に、相当の決意、悲壮感さえ覚えます。しかし、この畑に隠された宝のたとえを読む時に、それを探し当てた時に「大喜びで帰り、持ち物を全部売り払って」とあるような行動をとってしまう。このように、イエス様についていく、天の御国を自分のものとすることは喜ばしいこと、うれしくて、わくわくするようなものであること、またどのような犠牲を払ってでも手に入れたい魅力を持ったものであることを教えられます。
45また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。46すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
これも「畑に隠された宝」と同じように、見つけたものが高価であったこと、持ち物全部を売り払ってそれを買ってしまうというたとえ話です。
今は養殖真珠があるので、真珠はそれほど貴重な宝石ではありませんが、古代社会では、真珠はたいへん高価であり、まして良い真珠となると、なかなか手に入れることはできませんでした。それで真珠商人は、質の良い真珠を求めて、遠くペルシャ湾、インド洋沿岸まで旅をして捜しまわっていたのでした。
その真珠商人が今まで見たこともないような色、形、大きさ、すべてそろったすばらしい真珠に出会ったのでした。彼はすべての持ち物、持っていた真珠も含めて全部を売り払って、その1個の真珠を自分のものとしたのでした。商売のことを考えるならば、いろいろな真珠を持っていたほうが売りやすいし、有利であったでしょう。しかしこの真珠は、商売を抜きにして、ぜひとも自分のものとしたかった、世界でたった一つのものだったのでした。
この商人のように、捜しに捜して、信仰でいえば求道に求道を重ねて、何年もかけて、イエス様が私たちの救い主、イエス様は私たちの罪のために、罪を赦し、天国に入れてくださるために十字架で身代わりの死、罪の刑罰を受けて死んでくださった。イエス様の十字架の死が自分の罪のためであったことがわかる人もいるのです。
天国を発見することは、ある人にとっては、畑に隠されていた宝物を見つけ出すように思いがけない所で偶然のようにして見つけることになります。偶然のようであっても、それが神様のみこころであり、導きがあったことを私たちは知っています。
この畑に隠されていた宝物を発見した人のように天国を自分のものとすることができた人たちがいました。イエス様といっしょに十字架につけられた強盗がそうでした。
ルカの福音書23:42−43「42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」」
イエス様を迫害していたパウロもそうでしょう。
使徒の働き9:4−5「4彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。5彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
そうではなく、イエス様に救いを求めて、イエス様に出会い救われた人たちもいます。ツァラアトに冒された男の人、長血に苦しんでいた女の人を思い出すことができます。
このように、イエス様に救われる過程、神様の導きはさまざまです。しかし、それはみな、喜びの発見でした。発見したものを手に入れるために、持ち物を全部売り払ってしまうほどでした。
神の国は喜びを生み出す所です。イエス様を信じることによって罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。
友人に誘われて教会にきた私もそうでした。教会の後ろの席で、説教中も、隣りに座っていた友人とひそひそしゃべり続けていた者でした。しかし、そうして教会に通い続けているうちに、そこにすばらしい宝物を発見したのです。自分の持ち物を全部、自分の生涯をかけて、これを自分のものとするようにされたのでした。
また、良い真珠を見つけた商人のたとえから、求めればそれを見つけることができることを教えてくれます。熱心に求める人に与えられることが聖書の約束です。
マタイの福音書7:7−8「7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
天の御国は、行って持ち物を全部売り払ってまで手にしたいものでした。売り払うのにか困難が伴うかもしれません。捨てたくないものがあるかもしれません。しかし、それは手に入れてみると、さらに輝きを増し、喜びへと導いてくれるものです。
私たちは、そのようなすばらしい宝物を発見をできたことを感謝して、その宝物をこれからもしっかりと持って歩みたいと思います。
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