ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2011年8月7日
2011年8月7日 主日礼拝説教
「心から出てくるもの」(マタイの福音書15章1節〜20節)
イエス様がなさった5千人のパンの奇蹟の後、イエス様は群衆からユダヤ人の王として見られるようになりました。先回、イエス様がガリラヤ湖の嵐の中を水の上を歩いて弟子たちの所にやって来られました。これも弟子たちにとっては、「確かにあなたは神の子です」と言ってイエス様を拝する出来事でした。イエス様が救い主に違いないという期待が大きくなってきたところでした。
しかし、ユダヤ教の指導者はイエス様を危険な人物と見ていました。ガリラヤ地方にいたパリサイ人とは、安息日について論争がありましたが、今度はエルサレムから「パリサイ人や律法学者たち」がやって来ました。
1そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。2「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
今回問題にしたのは2つのことでした。1つは「長老たちの言い伝えを犯している」ということ、2つは「パンを食べるときに手を洗っていない」ことでした。
「パリサイ人や律法学者たち」は、いつでも神様に喜んでいただくためにどうするか、聖書にある律法をいかに守るかを考えていました。それで、学者たちによる律法の解釈、その説明、補足、判例などが「言い伝え」としてまとめられていきました。
最初は律法の解説書であったものが、しだいに聖書と同じ権威を持つようになり、さらに聖書を超える教えとなっていきました。それが「長老たちの言い伝え」と言われるものでした。律法学者たちが弟子たちに「手を洗わない」罪を指摘したのは、この「言い伝え」に基づく訴えでした。
手は日常生活で、この世の汚れたものや汚れた人々と触れやすい部分です。外出した時に、異邦人が触れたものに触れてしまうかもしれません。それで帰宅した時は、きよめのために手を洗わなければならないと教えたのです。
しかし聖書では、これは祭司に対する教えでした。これを拡大し、一般の人も食事のたびにきよめの儀式として手を洗うようになったのでした。きよめない手で食事をすれば食物は汚れ、そしてその食物によって体が汚れると考えたのです。
それがその人の神様への熱心さ、敬虔さを示すものとなったのでした。そのような「長老たちの言い伝え」に真っ向から否と唱えたのがイエス様の新しい教えでした。
外見は敬虔さを見せていましたが、その心は神様から離れ、規則に縛られ、人目を気にする宗教になっていました。また、言い伝えは聖書本来の教えと矛盾するようになりました。
3そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。4神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。5それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、6その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
「あなたの父と母を敬え」はモーセの十戒の第6の戒めです。
言い伝えの中に、「これは供え物になりました」と言ったことばは、変更できないというものがありました。将来、両親を扶養するために使うべきお金を、親子喧嘩などのおりに感情的になって「供え物になりました」と誓ってしまうと、もう親のために使えず、「あなたの父と母を敬え」という親を扶養する義務を果たすことができなくなることが起こっていたのでした。
イエス様は、このことから神様の戒めである神のことばより、言い伝えのほうが上になっていることを指摘されたのでした。
イエス様はイザヤ書のことばを引かれました。
8『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。9彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
宗教指導者たちは先祖からの言い伝えを守っていましたが、それは形式的・表面的なものでした。それはイザヤの時代と同じでした。口では神様を敬っていましたが、心は遠く神様から離れていました。
彼らの熱心さは、「人間の教えを、教えとして教えるだけ」でした。「長老たちの言い伝え」は、律法を守るためにはどうしたらよいかを教えた規則集でした。しかし、その言い伝えに従うことが、かえって神様の教えを破ることになっていたのです。
パリサイ人たちは、それを聞いて立ち去っていきました。そのあと、イエス様は群衆に向かって、何が人を汚すのかを話し始めました。
10イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。11口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
汚れたものへの接触によって人を汚すことはなく、汚れは人から出てくるものであると教えられました。またパリサイ人たちに対しては、彼らは根こそぎにされる木であり、盲人を手引きする盲人であって、全く頼りにならない導き手であると弟子たちに語りました。
弟子たちは、イエス様に「口から入る物、口から出るもの」とはどういう意味かと尋ねました。
15そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」16イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。17口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
汚れたものを食べても心には入らず、それは腹に入りかわやに捨てられるだけです。だから、きよめの儀式をしないで食べても、それがその人を汚すわけではないのです。
18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。20これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
むしろ、まことの汚れは人の内側から出てきます。これらはきよめの儀式をしなかったから出てくるのではありません。このことに律法学者・パリサイ人たちは気づきませんでした。そしてそれをきよめるためにはどうしたらよいかに心が向くことはありませんでした。これらはきよめの儀式や、またそのほかの言い伝えを守ることによっては解決されないのです。
イエス様は汚れを取り除くために来てくださいました。汚れている者と言われていた取税人、病人、異邦人たちは、イエス様の教えにより、またイエス様にいやされて罪がゆるされ、きよめられるという体験をしたのでした。
イエス様は、すべての人が持っている罪を神様の前に赦していただくために、代わりに十字架にかかってくださいました。
人の罪は、払い落としたり、水で洗いきよめたり、修行によってきよくなれるものではありません。罪は人の内側、人の根源に原因があるので出てくるのです。人はそのような罪から逃れたい、きよくなりたいという意思は持っていますが、それをする力がありません。イエス・キリストの十字架のみが、罪をきよめてくださったのです。
ヨハネの手紙第1、1:7−9「7御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
私たちはそのことを覚えて、感謝をもって歩みたいと思います。
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