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2011年8月28日 主日礼拝説教
「天からのしるし」(マタイの福音書16章1節〜12節)
イエス様は異邦人の地を巡る旅を続けておられます。それは、一時的にユダヤ人指導者たちから逃れるためでした。また弟子たちが持っている異邦人への偏見を除くためでもありました。それは将来の世界宣教のためにはどうしても必要なことでした。
イエス様は、まず北のツロとシドン、フェニキヤ人の町にやってきました。その後イエス様は、ガリラヤ湖の南東側、異邦人の住むデカポリス地方にやってきました。そこで、多くの病をおった人たちをいやされ、また彼らに神の国の到来を語りました。それが3日間も続きました。その時イエス様は、かつてユダヤ人の男5千人にパンを与えてくださったように、異邦人の男4千人に7つのパンと少しの魚をもって養われるという奇蹟を行ってくださいました。
それからイエス様はまた舟に乗り、ガリラヤ湖を渡り、「マガダン地方」に向かわれました。
マタイの福音書15:39「それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。」
マルコの福音書では、そこが「ダルマヌタ地方」であったと記されています。新改訳聖書についている聖書地図「キリストの後期旅行」によると、ガリラヤ湖の西「マグダラ」と考えられています。そこに、パリサイ人とサドカイ人が待ちかまえていたかのようにやってきました。
1パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
「パリサイ人」はユダヤ教の中の一つのグループで、最も厳格に聖書の律法を守るように要求し、自らもそれを行っていた人たちでした。
マタイの福音書で初めて出てきた「サドカイ人」もユダヤ教の一派でした。彼らは、支配階級、貴族階級に属する人たちで、最高議会の議員の多くや大祭司はサドカイ人でした。彼らは聖書にある復活を信じませんでしたし、この世の生活習慣を取り入れ、ローマ社会にもうまく溶け込もうとしていた世俗的なユダヤ教と言ってもいいグループでした。
本来ならばいっしょの行動することのなかったサドカイ人とパリサイ人が、そろってイエス様のところにやってきました。それだけイエス様の存在がユダヤ社会で問題になっていたのでした。
彼らは「天からのしるしを見せてください」と求めました。これは先にパリサイ人たちが行った質問と同じでした。
マタイの福音書12:38−39「38そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」39しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」
この時、パリサイ人とサドカイ人が来たということは、ユダヤ教全体で、イエス様のことをどう判断したらよいか、イエス様が救い主かどうかを調べようとしていたのでした。
イエス様は、「夕焼けと朝焼けによって天気を見分けることができるのに、どうしてわたしの奇蹟を見、語っていることを聞いて、本当の救い主かどうか見分けることができないのですのか」と言って、先の時と同じ、ヨナのしるし以外には与えられないことを語られました。
ヨナは大きな魚の中で3日3晩過ごした人です。人々から、ヨナはもう海に沈んで帰ってこない、死んだと思われていたのに、生き返ったように現れて、ニネベに向かったのでした。イエス様も十字架で死んで3日間墓の中にいましたが、そこから復活して弟子たちの前に現れたのでした。
それがしるしであり、それによってイエス様が天から来られたお方であることが明らかになるというのです。
そして、また舟に乗って向こう岸(東岸)に行かれました。マルコの福音書8章22節に、着いた所は「ベツサイダ」であったと記されています。その舟の中での出来事です。
5弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。6イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
弟子たちが、パンを持って来るのを忘れたことを話をしていました。その時イエス様は「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」の話をされました。
パン種は良い意味にも、悪い意味にも、いろいろたとえられます。
マタイの福音書13:33「イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」
この時は良い意味で使われていましたが、「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」は悪影響を与えるものとして使われています。その影響力はしだいに増し、弟子たちにも脅威になっていきます。だから「注意して気をつけなさい」と言われたのです。しかし弟子たちは、イエス様の言われた意図に気づきませんでした。
7すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。
弟子たちは、向こう岸に着いてパンを買わなけらばならなくなった時、パリサイ人やサドカイ人に注意して買うように言われたのではないかと考えてしまったのでした。
8イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
これまでも弟子たちは、イエス様のことばを正しく理解できなかったことがしばしばでした。この時も、自分たちがパンを持っていなかったからイエス様がパン種のことを話されたと思い、これからパンがなくてどうするのか、だれがパンを忘れたのかなどと論議したのでした。
そのときイエス様は、弟子たちの信仰、弟子たちの生き方を問題にされたのでした。そのことを気づかせるために、また弟子たちを教育するために、今までに行ったパンの奇蹟を思い出させました。
男5千人がパンを有り余るほど食べました。弟子たちはパンのことは心配する必要がありませんでした。生活のパンはいつも与えられていました。弟子たちの必要は必ず満たされたのでした。
さらに男4千人に行ったパンの奇蹟にも言及されました。
11わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
イエス様が問題にされたのは、イエス様の力を忘れてしまい、自分の周りに起こったことに右往左往してしまい、神様を見上げず思い煩いの中に陥ってしまうこと、イエス様の恵みを忘れてしまうこと、それを「信仰の薄い人たち」と言われたのでした。
12彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
ここまで言われて、弟子たちはようやく、パン種とは「パリサイ人やサドカイ人たち」の教えであることに気がつきました。パリサイ人は偽善的であり、形式的な律法主義者でした。今までも、安息日をどう守るか、聖めの儀式、手を洗うかどうかで議論を仕掛けてきました。
サドカイ人は、この世的、この世に迎合する物質主義者でした。
私たちは、この時の弟子たちとは違って、すでにイエス様の全生涯を知っています。イエス様のなさった奇蹟、教えてくださったことすべてが、そしてイエス様の十字架と復活が、イエス様が救い主であることを信じられるしるしであると知っています。
また、何に気をつけなければならないかも知らされています。形式的な律法主義であり、また世俗に流されてしまう物質主義です。
私たちが目指すものは、神様を信じ、神様の国を目指すことです。
ピリピ人への手紙3:18−20「18というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
私たちはこの地上に生きている時も、神の国にいるのと同じような喜びの生涯を送ることができるのです。それは神様がいつも共にいてくださり、どんな時にも見捨てず、いつも慰め、励まし、恵みを私たちに与えてくださるからです。そのことを感謝して、また1週間を歩みたいと思います。
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