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2011年9月11日 主日礼拝説教
「十字架とよみがえり」(マタイの福音書16章21節〜28節)
ピリポ・カイザリヤで、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問われました。シモン・ペテロが代表して答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」その告白は、これから始まる教会の土台となるものでした。
それを聞いてイエス様は言われました。
21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
イエス様はキリストとして、これからご自分の身に何が起こるかを具体的に話し始められました。これ以後、あと2回、このことについてイエス様は語られます。
22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
ところが弟子たちにとっては初めて聞くことでした。ペテロをはじめ弟子たちは、イエス様が武力によってユダヤをローマから解放されるお方とは思わなかったとしても、彼らなりにキリストの王国がどのように実現されていくのか考えていたでしょう。しかし、イエス様は突然、ご自分がエルサレムで殺されることを宣言されたのです。
ペテロは、イエス様が神のひとり子であり、イエス様の国はこの世のものではなく永遠に続く神の国であり、イエス様が神の国をご支配されるお方であると理解していたでしょう。しかしそのイエス様が、なぜ「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され」なければならないかがペテロにはわかりませんでした。
23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
きびしいイエス様のおことばでした。イエス様を愛してやまないペテロにとって予想もしなかったことばでした。しかし、イエス様を気づかうペテロのことばの中にさえ、サタンはわなをひそませていたのです。
これはサタンの誘惑のことばでした。エルサレムで死ななくても人々を救うことができるのではないかというささやきです。かつて、サタンは荒野で「あなたが神の子なら、その力によって人々を救ったらどうか」とイエス様を誘惑したのです。
「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白をしたペテロと弟子たちは、エルサレムで死ぬことになる救い主キリストの歩みを理解できず、受け入れることができませんでした。
神様のご計画とは、人間の罪によって生じた、神様と人間との断絶に橋をかけることでした。それを、神様のひとり子であるイエス様が十字架の死をもって引き受けてくださいました。
ペテロの手紙第1、2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
さらにイエス様は弟子たちに、イエス様に従おうとする者の心得を語りました。
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
「自分を捨てる」とは、自己中心の歩みや自分中心の考えを捨てることです。イエス様は、そのように「自分を捨て」たうえで、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃったのです。
十字架刑に処せられることになった者は、罪状書きをぶらさげ、刑場まで自分の十字架を負って、見せ物となりながら歩いて行かなければなりませんでした。イエス様は私たちに対して、そのように「自分の十字架」を負いなさいと語っているのです。
私たち一人一人の、自分の十字架とは一体何でしょうか。その十字架は、一人一人違っているでしょうが、それはイエス様とは無縁のものではありません。
イエス様を信じ、信仰生活を送っていくうえで、一人一人が主イエス様から示され、託され、負うようにと求められているものです。私たちがクリスチャンになったことによって、何らかの不自由さを感じたり、あるいは苦しい思いが生じることがあるかもしれません。それでも私たちはイエス様についていきます。神様を第一とします。その生活が、「自分の十字架を負い」そしてイエス様についていくことなのです。
25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
「いのち」とはイエス様が約束してくださっている「永遠のいのち」です。それは、死後に与えられるいのちだけではありません。イエス様を救い主として信じた時から、私たちに与えてくださった喜びのいのちです。
イエス様はさらに言われました。
26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
最後にイエス様は再臨のことについて触れられました。
27人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
イエス様は、今は天におられますが、もう一度この世界にやってこられます。私たちはその時、自分の十字架を確かに負い続けたかどうかをイエス様に問われるのです。そして「自分の十字架を負い続けた」者に、神様を第一として歩んだ者に、イエス様はすばらしい約束、報いを与えてくださるのです。
これらのことを聞いたペテロたちは、はたしてこのあと「自分の十字架を負う」ことができたでしょうか。弟子たちは自分を捨てるどころか、だれが一番えらいのか、天国ではだれがイエス様の隣に座ることができるのかと言い争うのです。ペテロは自分を捨てるのではなく、イエス様を捨ててしまいました。ペテロは3度「イエス様を知らない」と言ってしまうのです。
イエス様は、そのようにペテロや弟子たちの弱さを何もかもご存知で、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃったのでした。イエス様の十字架の死は、自分を捨てられない者たちが持っている罪を赦すためでした。
ペテロたちは復活されたイエス様に出会って、イエス様が「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言われたことばが自分の罪のためであったことを、そして「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われたことばが、そのようにできない弱い自分たちが何度でも赦される愛と恵みに満ちたことばであったことを知ったのでした。
ペテロや弟子たちに「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」と声をかけてくださったイエス様のおことばは、私たち一人一人への招きのことばでもあります。私たちは小さな信仰であるけれども、弱く失敗だらけの者であるけれども、イエス様が何度でも赦してくださるのでイエス様についていくことができるのです。イエス様が「ついて来なさい」と言ってくださるので、私たちは「イエス様について行きたい」と願うのです。
私たちは「神の国」と永遠のいのちを望みつつ、これからも「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イエス様について行きたい」と思います。
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