ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年10月9日


2011年10月9日 主日礼拝説教
「子どものように」(マタイの福音書18章1節〜5節)

■はじめに

 イエス様は、異邦人の地からガリラヤに帰って来られました。異邦人の地での最も重要な出来事は、ピリポ・カイザリヤにおけるペテロの信仰告白、「あなたは、生ける神の御子キリストです」でした。それを聞いてイエス様は初めて、ご自分はこれからエルサレムに向かい、ユダヤの指導者に捕らわれ、苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえることを話されました。
 そのあとイエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れてヘルモン山に登られ、栄光の神の御姿に変えられました。そこでもイエス様は、エルサレムで起こる最期の出来事、エルサレムで殺されることを、そこに現れたモーセ、エリヤと話し合われたのでした。
 それからガリラヤに帰られたイエス様は、2回目の受難予告をされました。また「イエス様はこのところ宮の納入金を納めていないがどうするのですか」という質問が、納入金を集める人からペテロにありました。イエス様には納める必要のないものでしたが、集金人や群衆のつまずきとならないために、それを納めることにしました。イエス様は、ガリラヤ湖の魚の口から銀貨を吐き出させるという奇蹟によって支払いを済ませました。

■だれが一番偉いか

1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」2そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、

 弟子たちが「それでは、天の御国では」と質問するまで、もう一つ別の出来事がありました。マルコの福音書には、2回目の受難予告の後の納入金問題をとばし、マタイが書かなかった出来事を記します。

マルコの福音書9:33−36「33カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」34彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。35イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」36それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。」

 異邦人の地からカペナウムに来る途中、弟子たちはだれが一番偉いか論じ合っていたのでした。人の上に立ちたい。なんとか競争に勝ちたいという思いがイエスの12人の弟子の中にもあったのでした。
 イエス様はエルサレムに向かおうとしています。弟子たちは、イエス様の教えておられるイエス様の国、天の御国がだんだんと近づいていることは感じていました。そのイエス様の国で自分はどのような地位に着くことができるのか。平等なのか順番があるのか。あるならより高い地位につきたいと願っていました。
 しかし、なんとなく弟子の中に序列ができてきました。変貌の山に登ったのはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。宮の納入金の出来事を見ても、イエス様との窓口はペテロのようであり、またイエス様はペテロの分だけ納入金を支払ってくれたのでした。そのような中、弟子たちに「だれが一番偉いか」というような議論が起きてきたのでした。
 彼らの関心事は神の国の広がりではなく、またイエス様が捕らわれるかもしれないということでなく、自分の地位であったのでした。この議論はこれからも続き、このあとヤコブとヨハネの母親がイエス様を訪ね、自分の子どもたちを神の国でイエス様の右と左に座らせてほしいと願うのです。
 そこでイエス様は、天国で一番偉い人はだれなのかを子どもを使って教えようとされました。近くに遊んでいた子どもが呼び寄せられました。

■子どものようにならなければ

 イエス様はその子を弟子たちの真ん中に立たせました。

3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

 イエス様は、悔い改めて子どものようになることが天の御国に入る条件であると言われました。イエス様のなさったこと、イエス様の歩まれた生涯を聖書の書かれているとおり、子どものように信じ受け入れる人は天の御国に入ることができるのです。
 私たちは、そのようにされていること、そのように悔い改めて子どものように信じることができたことを感謝いたします。

■自分を低くする者、子どもを受け入れる者

 そのように神様から天の御国に入るという特権を受けておきながら、天の御国でだれが一番偉いのかなどと議論しているところに弟子たちの問題があったのでした。
 そこでイエス様は、2つの生き方を弟子たちに教えられました。

4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。5また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 この当時子どもとは、だれにとってもかわいい、無邪気なという存在ではなく、女や奴隷に任せっぱなしの価値のないものという感じであったそうです。子ども邪魔なうるさいものだったのでした。
 その子どもを「わたしの名のゆえに」受け入れなさいというのです。名とはその人自身を表します。「ゆえに」ということばは、「根拠にして」という意味です。ですから子どもを、この最も小さい者、価値のない者をあたかもイエス様であるかのように受け入れるということです。
 イエス様は「だれが偉いかではない」、自らへりくだって、「自分を低くする者」となりなさいとおっしゃいました。マルコの福音書ではこう言われました。

マルコの福音書9:35「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」

 「一番偉い者」「人の先に立ちたいと思う」者は、「自分を低くする」、「このような子どものひとりを受け入れる」者ですが、マルコによれば、「しんがりとなる」者、「みなに仕える者」であると教えてくださいました。
 彼らはイエス様に選ばれた弟子として、これから新しく生まれようとしている教会の指導者になるのですが、自分を低くして、仕える者になることが必要だったのでした。これが神の国で、教会で人の先に立ちたい者の生き方でした。

■イエス様の歩み

 「自分を低くする者、へりくだる者、一番あとになる者、みなに仕える者」を最も示されたお方が、これからエルサレムに向かって、十字架の死への道を歩もうとされているイエス様でした。

マルコの福音書10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

ピリピ人への手紙2:6−8「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

コリント人への手紙第2、8:9「9あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 イエス様は、すべての者の友となってくださり、小さい者、貧しい者、罪深い者を受け入れてくださいました。私たちはその十字架によって救われたのであり、その恵みにあずかっている者たちです。
 そのような私たちに、「仕える生き方」「子どものように」生きることを問いかけておられます。そう言われても、自らの不足、かたくなさ、愚かさを認める私たちです。私たちはそのことをイエス様に申し上げ、イエス様を見上げるしかできない者たちです。
 しかし私たちは「子どものように、自分を低くする」こと、また私たちは「子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者」には今すぐにはできないけれど、御霊の働きによって、そのように少しずつ変えられていくのです。
 イエス様自らがそれをしてくださり、そうなってくださったことを覚えて、またイエス様がこのような私たちを愛し、神の子としてくださった恵みを感謝して、これからもイエス様を見上げて歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年10月9日