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2011年10月16日 主日礼拝説教
「小さい者たちへの愛」(マタイの福音書18章6節〜14節)
天の御国ではだれが一番偉いのか。どのような人が偉いのか、から始まった問題でした。イエス様は、天国で一番偉い人はどういう人なのかを、近くにいた子どもを呼び寄せて教えてくださいました。子どものように自分を低くすること、さらにこのような子どものひとりをイエス様であるかのように受け入れることでした。イエス様は、この2つの生き方を弟子たちに教えられました。
今日は、天の御国に導き入れられた人の生き方を、小さい者たちにどう対処したらよいかを示しながら語ります。
6しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
信仰を持ちながら小さい者をつまずかせることは、恐ろしい罪を犯したことになるというのです。小さい者とは信仰を持って間もない人を言います。パウロはそのような人を「信仰の弱い人」と呼んで、その前につまずきになるものを置かないようにと語りました。
ローマ人への手紙14:1、13「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。……13ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」
「石臼」とは欄外注にあるように、「ろばが引く石臼」「ろばに引かせて回転させ粉にする大きな石」です。イエス様は、これほどに小さき者を大切にしておられました。イエス様は、そのような小さい者を救いに選ばれ、ご自身のいのちをささげてくださったからです。
7つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
イエス様はそのようなつまずきが起こるのは避けられない。人に罪を犯させるものは必ずやってくるとおっしゃいました。つまずきは神様に敵対するこの世にありますが、またこの世に教会があるかぎり、教会の中にもそれがひそんでいるのです。ですから、そうならないように注意をはらっていなければなりません。
続けてイエス様は、自分自身のつまずきとなるものを捨てるように語られます。
8もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。9また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
8節の「片手片足でいのちに入る」、9節の「片目でいのちに入る」は天の御国に入ることです。
手、足、目は人間にとって大切な部分ですが、それを通して罪が入ってきます。その片方が罪を犯すならそれを切って捨てなさい。体の一部を切ってでも永遠のいのち、神の国に入るほうが大切だからです。信仰者、救いを受け入れた者は、このような思いをもって歩むようにと言われました。
「ゲヘナ」は、「ゲー・ヒノム」(ヒノムの谷)から出たことばで、新共同訳では「地獄」と訳されています。ヒノムの谷はエルサレムの南にあり、エルサレムのごみ処理をする所で、絶えず火が燃えていました。また処刑された犯罪人もそこに捨てられました。そこから「神の審判によって、罪人が入れられる苦しみの場所」がゲヘナと呼ばれるようになったのでした。
イエス様は、信仰者自身の生き方、つまずきとなるものは切って捨てよと教えた後で、もう一度小さい者たちに対する教えに戻ります。
10あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
イエス様は、小さい者たちを「見下げたりしないように」、軽んじないように気をつけなさいと教えます。それは、天で御使いたちたちが「わたしの父の御顔をいつも見ている」からでした。それは御使いが神様に仕えている様子を示しています。神様に仕えながら、御使いはこれら小さい者たちのために働いているのです。
ルカの福音書15:10「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」」
次いでイエス様は、小さい者ひとりひとりが神様の前では大切なひとりであることを、たとえをもって教えられました。
12あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
これはイエス様がしばしば語られたたとえ話でした。ルカの福音書15章では、イエス様が罪人といっしょに食事をされていた時でした。パリサイ人たちから、なぜそのような人といっしょに食事をするのですかと問われ、イエス様はこの迷子になった1匹の羊のたとえを話されました。そこでは、イエス様はひとりの罪人が悔い改めることの喜びを語りました。
今日の箇所では、同じたとえを使って弟子たちに、小さい者たちがいかに大切な存在であるかを示されました。小さい者たちは、迷子になったら弟子たちが捜しに行くほどに大切なひとりひとりなのでした。
13そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
そのように、小さな者たちを愛し、思いやりをもって接してあげなさいというのです。迷わなかった99匹も大切ですが、その迷子になった1匹も神様の子どもであり、価値があり、神様が愛されている者であり、それは残っている99匹と何ら変わることがないのです。
14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
弟子たちに対して、小さい者たちへ愛を注ぐように語られたイエス様でした。その小さな者たちへ最も愛を注いでくださったのは神様でした。神様は、私たちひとりひとりを選び、呼び出し、教会へ導き、みことばを読むように、その教えを聞くように導いてくださいました。
そのように、ひとりひとりは神様の愛してやまない羊なのです。その羊を救い出すために、神様は神のひとり子であられるイエス様を送ってくださいました。イエス様はその羊たちを救い出すために、迷子になっている羊を見つけ出し、天の神様のもとに連れ戻すために、神様の前にきよい羊として出られるようにと、私たちの罪のため、身代わりとなって十字架で死んでくださいました。
イエス様の弟子たちは、子どものように自分を低くし、さらにこのような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れなさい。また、そのような大切なひとりひとりが天の御国に入れるように、救いに導かれるように、またつまずきを与えないようにしなさい。さらに、ひとりひとりを軽んじないよう、また迷子になったら連れ戻すために探し出しなさい。ペテロたち弟子たちは、そのような働きをするように教えられたのでした。イエス様の近くにいた弟子たちは、みなに仕えるものとなって、ひとりひとりを愛し、そのような教会を立て上げる指導者とならなければなりませんでした。
私たちもそのようにして立てられた教会に導かれている者たちです。私たちも教会のため、ひとりひとりの兄弟姉妹ために祈りながら、日々に信仰の歩みを歩んでいきたいと思います。
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