ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年10月30日


2011年10月30日 主日礼拝説教
「王は赦してくださった」(マタイの福音書18章21節〜35節)

■はじめに

 どのような罪も神様は赦してくださいます。それが聖書の教えであり、イエス様のみこころでした。しかし、人の犯した罪が隠され、悔い改めないならば、その人を正し、場合によっては教会から去らせるようなことも行わなければなりませんでした。
 その人が悔い改めて、受け入れたもののまた罪を犯してしまった場合どうしたらよいか。今までイエス様の教えを聞いていたペテロは、そのことを質問しました。

■七の七十倍

21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 罪の赦しは何度まででしょうか。ペテロは、イエス様のお心をくんで、「私は7回も赦すことにしましょう」と言いました。ところが……

22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 「七度を七十倍するまで」は490回になります。イエス様は回数を言っているのではなく、「限りなく赦しなさい」と言われたのでした。

■一万タラントの負債

 イエス様は、罪を赦すことについて教えるために一つのたとえ話をなさいました。

23このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。

 王様は、しもべたちに貸していたお金を清算することにしました。そのことがふれられると、王様からお金を借りていた人たちが王様の前にやってきました。

24清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。

 「一万タラント」は今で言うと、1兆円とでもいうべき額でした。一生かかっても、とうてい個人では返せない金額でした。
 1タラントは6000デナリに相当します。1日分の給料は1デナリと言われていましたので、1万タラントは6000万日分の給料になります。1年間に働く日数の300日で割ると、20万年分働いた給料分の金額となります。それは、どんなに働いても、自分のものを何もかも売り払っても返せない借金でした。

26それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

 しもべは今まで、このお金を使って好き勝手に生きていました。王様から何も言われなかったし、自分は自由に生きていたつもりでした。しかし、本当の自由とは何かに気づかなかったのでした。
 彼は「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします」と言いましたが、返す当てがあったわけではありません。

27しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 しかし王様は、信じられないほどやさしい、あわれみ深いお方でした。「かわいそうに思って」ということば、はらわたが揺り動かされるほど心を動かされる思いです。それで王様は、しばらく待つどころか、一部の免除でもなく、全額を免除、全く借金がなかったことにしてくれたのでした。

■神様に対する負債

 私たちは、この王としもべとのやりとりに人間の姿を見せられるのです。私たちは神様にとうてい返すことにできない、神様に対して償うことのできない負い目、借金を負っているのです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちが普通使っている罪とは違い、これは神様に対する負債です。
 神様はこの世界を造ってくださいました。人間は、この世に生まれさせてくださったことを神様に感謝し、仕えるべき者であるのに、それを忘れているか、見て見ぬふりをしているのです。それを聖書では、その人は罪の奴隷、罪のしもべとして生きていると言います。

ローマ人への手紙6:20−21「20罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」

 本来は神の奴隷(神に仕える者)として歩むべきところ、人はそれに気づかず、神様に背を向け、罪の奴隷として歩んでいたのでした。そのことを「義については、自由にふるまっていました」と言っています。それは、神様によって罪が赦され、罪から自由にされることを知らずに好き勝手に歩んでいたことです。
 自由に生きていたつもりの人生が、行き着くところは「死」でした。

ローマ人への手紙6:22「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」

 しかし、罪の奴隷から神の奴隷に身分が変わった時、自由と思っていた生き方が「恥じている」もののように感じられ、むしろ「聖潔に至る実」を得る生き方(それは、罪が清算され、罪から自由にされ、神と共に、神のきよさの中に生きる生き方)のほうがもっと楽なすばらしい生き方であることを見いだすのです。しかも「永遠のいのち」をも与えられるのです。それは、イエス様が十字架でこのようにしてくださったからでした。

ペテロの手紙第1、2:22−24「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 それを信じる者に神様は、私たちにはなお罪がありますが、それでも神様の目には罪ない者、罪赦された者としてくださるのです。イエス様が代わりに罪の罰を受けてくださったからです。
 神様はどんな大きな負債も赦してくださいます。これは神様のあわれみの心、はらわたが揺さぶられるような思いから出てきた神様の私たちに対するあわれみでした。それが神様の恵みです。

■100デナリを返せない同僚に

 そのように赦された者が、それがどれほど大きい恵みであったかを忘れ感謝できない時に、どういう歩みをするかが次の段落から出てきます。

28ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。

 王様から1万タラントの借金を免除されたしもべは、家に帰って行きました。その途中、「百デナリ」を貸していた同僚に会いました。100デナリは1万タラントの60万分の1になります。60億円に対して1万円です。60億円の借金を赦された者が、友人に1万円を返せと首を絞めて迫ったのと同じことです。
 しもべは、問答無用、仲間のしもべを牢に入れてしまいました。ほかのしもべたちがこの出来事を見ていて、それを王様に告げたのでした。

33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』34こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。

 しもべにはあわれみの心が欠けていました。王様から受けたあわれみを思い、感謝の心があるならば、仲間を赦し、しばらく待つことができたはずでした。
 王様は「借金を全部返すまで」と言いましたが、しもべは1万タラントの借金を自分では返すことができないので、絶対に出ることができない牢に入れられてしまったのでした。

■赦してくださる神様

 しもべが返すことのできない1万タラントの借金は、人間の罪を表していました。神様は、そのとうてい返すことのできない罪を赦してくださいました。
 また、仲間のしもべを赦せなかった男の姿は、罪が赦されながら、それをすぐに忘れてしまう人間の罪深さを表していました。しかし、牢に入れられたしもべに対しても、返せないはずの借金を代わりにイエス様が十字架の死によって全部払ってくださったのでした。彼はそのことを知って感謝すれば、仲間のしもべを牢に入れたことを悔い改めれば、また牢から出て来ることができるのです。
 ペテロは何度赦すべきでしょうか、とイエス様に尋ねました。イエス様は7の70倍、無限に赦すようにペテロに教え、諭されました。何度でも赦し、温かく迎え入れるように、と。
 しかし私たちは、この牢に入れられたしもべと同じような者です。何度でも赦す側にいるのではなく、何度でも赦される側にいる者です。何度でも赦してくださる側にいるのは、神様、イエス様だけでした。
 今日も私たちは、この神様のあわれみを知り、感謝したいと思います。

詩篇51:17「神へのいけにえ(神様への思い、心)は、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

 そのような思いの中で、神様に罪を赦された者として兄弟を愛し赦すことのできる歩みを目指して、神様の助けをいただいて、これからも信仰生活を歩みたいと思います。


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