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2011年11月6日 主日礼拝説教
「神が結び合わせたもの」(マタイの福音書19章1節〜12節)
イエス様は罪を犯した人を無限に赦し愛してくださいます。そのことをイエス様は、1万タラントを赦された人のたとえ話を通して教えてくださいました。
19章からは、イエス様の活動がガリラヤとその周辺からユダヤ、エルサレムへと移っていきます。21章になると、イエス様が十字架にかかり復活される最後の1週間前、エルサレム入城になります。今日は、その旅の途中、パリサイ人がやって来ました。
3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
「妻を離別すること」は、ユダヤの教えでは許されることでした。
申命記24:1「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなったら、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなさい。」
しかし、何が離婚の原因として認められるのか、「何か恥ずべき事を発見したため」が何であるかは、律法学者の間でも定まった見解がありませんでした。姦淫や不品行に限るという解釈や、あるいは料理を失敗した時、より好ましい女が見つかった時も「恥ずべき事を発見したため」に含まれるなど、様々でした。しかし、これらはすべて男の側だけの理由に限られていました。
この問いは、「イエスを試みて」とあるように、どう答えてもイエス様をわなにかけようとする問いでした。それに対してイエス様は創世記から答えられました。イエス様は、神様の御思いの中には、離婚のことは最初なかったことを教えようとされたのでした。
4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
神様によって創造された男と女は、共に創造されたものということで、神様の前で対等の立場にありました。ですから、男のほうからだけ離婚を要求できると考えるのは、創造の経緯から誤っていました。次いで……
5『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
イエス様は、男と女は本来一体であることを教えられました。それが神の定めた制度であり、結婚でした。ですから、一体である妻と離別することは、神様の創造のみこころに反していました。
創世記2:18「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」」
神様がなさった創造の働きは、すべて良いものでした。しかし男を造られたとき神様は、ひとりでいるのは「良くない」と仰せられました。神様の創造の働きを完成するために必要な女の創造でした。
最も親しい間柄であった「親と子」の関係を離れて新しいきずなを結ぶことが結婚でした。離婚が容易にできると考えていたパリサイ人にとって、イエス様の答えは、結婚についての全く新しい教えでした。
6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
結婚のきずなは神によって結びあわされたものであり、それはもはや分けることができない存在でした。
7彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
先ほど読んだ申命記24章に書かれているとおりです。しかし、この律法は、女性に対して「離婚状を出せ」という命令ですが、これは、男性に対して、「離婚状を出して」おきながら離縁したその女と復縁してはいけないという律法でした。それを前半の「離婚状を出すように」という箇所だけを取り上げて、律法によって夫の側からの離婚が許されたもの、しかもモーセが命じた夫の権利として受け取っていたのでした。
8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
モーセの律法は離婚を許したのではなく、人間は創造されてから罪を犯したため、その心がかたくななので、神様のみこころに添えなくなってしまい、それでやむなく認めた離婚でした。また女性の側に立てば、離婚状がないと妻に不利になることがありました。離婚状があれば、女性はその男から解放され、他の男性と結婚ができたのでした。
このように、離婚の規定はあくまでも命令ではなく、許容的なものであり、男の当然の権利と考えるのは間違っていたのでした。
9まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
こうしてイエス様は、離婚が容易であった時代に、イエス様は結婚の本来の姿を示しました。イエス様はここで、離婚の理由として「不貞のため」という線を引かれました。
もう一つ離婚が認められる場合がありました。イエス様の十字架と復活のあと教会が始まり、クリスチャンが増えていったとき、教会の中で新しい問題が生まれました。それは、夫婦の一方がクリスチャンになった場合、そのときにクリスチャンでない配偶者と結婚を続けるべきかどうかということでした。パウロは、それについて神様から受けたこととして、次のように命じました。
Tコリント人への手紙第1、7:15「しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。」
相手が離れて行った場合、その時は離婚しなさい、と教えました。
相手の不品行と、相手が離れて行った場合の2つが、その後2000年の間、社会状況は刻々と変わっていきましたが、離婚について今も教会が守るべき聖書の原則です。
結婚について、聖書は、キリストが教会のかしらであるように、夫は妻のかしらであり、妻は夫を敬いなさい。またキリストが教会を愛し、ご自身をささげたように夫は妻を愛するようにと教えます。
エペソ人への手紙5:24、25「24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」
イエス様は私たちを愛してくださり、私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。それは、「人のためにいのちを捨てる」という究極の愛の表現によって成し遂げられました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という祈りの中で果たされた、神様の愛の行為でした。そのような愛をもって夫は妻を愛しなさいと教えられるのです。
神様が結び合わせてくださった結婚は、互いに神様に向き合い、妻は夫に従い、夫は妻を愛することを日々祈りの中で教えられ、努力していくなかで、しだいに円熟さを増していくのです。
男性優位の考え方に慣れていた弟子たちは、夫のほうから簡単に離婚できないことを知って、結婚しないほうがましですとイエス様につぶやきました。
10弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
それに対してイエス様は独身の問題にも触れられました。
11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。12というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」
独身は、「それが許されている者だけができる」と言われているように少数者の選択でした。
私たちは今、いろいろな道を通って、神様が与えてくださった結婚生活、神様が与えてくださった独身生活を歩んでいます。私たちが今あるのは、神様がそのように導いてくださったこと、神様が最善をなしてくださったことを信じて、それも、十字架の贖いによって今があることを感謝して、歩んでいきたいと思います。
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