ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年11月13日


2011年11月13日 主日礼拝説教
「子どものように神の国を受け入れる」(マタイの福音書19章13節〜15節)

■はじめに

 先週は、聖書が教える結婚と離婚、独身について見ました。神様は、人を男と女とに造られました。神様によって創造された男と女は、共に創造されたものということで、神様の前で対等の立場にあるということ。また、男と女は本来一体となるように造られたことを教えられました。それが神の定めた制度であり、結婚でした。ですから、一体である妻と離別することは、神様の創造のみこころに反することでした。しかし、人間はその罪のゆえに、神様のみこころに添えなくなってしまったため、神様はやむを得ず離婚を許されたのでした。

■子どもが連れて来られる

 さて、イエス様たちが、離婚について質問したパリサイ人たちと別れてからのことでした。そこに、子どもを連れた人がやってきました。

13そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 イエス様のもとにやってくる人たちは病人、悪霊につかれた人たちなど、みな何かを求めている人たちでした。それらの人たちは、イエス様に会いたい、お話を聞きたい、病を治していただきたい、という願いを持っていました。ところが、今日ここに来たのは「子どもたち」でした。
 子どもといっても、ルカの福音書で「幼子」と書かれているように、小さな、5歳くらいまでの子どもでした。そんな子どもたちを、イエス様のもとに連れてきたのは親たちでしょう。それは、イエス様に「手を置いて祈っていただくため」でした。両親たちは、子どもたちを祝福してもらいたい。頭に手を置いて祈ってもらいたいと願って連れて来たのでした。
 親が子どもたちを礼拝に連れてくる。何もわからない騒がしい子どもでも、神様の前に出るときに、神様から豊かな祝福が与えられるのです。

■弟子たちが妨げる

 せっかくやってきた子どもたちを弟子たちが妨げ。
 18章で、弟子たちの間でだれが一番偉いのかの議論があったときに、イエス様は、近くにいた子どもを呼び寄せておっしゃったことがありました。

マタイの福音書18:3「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」

 弟子たちは、そのことと、今日のことを結びつけることができなかったのでした。どうしてでしょうか。それなりの理由があったでしょう。
 イエス様は忙しい、疲れておられるという弟子としての配慮です。もうこれ以上イエス様を煩わせないように。それに子どもは何もわからない。理解できない。どうであれ、弟子たちに、子どもたちは重要ではないという思いがあったのでした。それは当時の子どもに対する価値観でした。それに、子どもは神の国、信仰のことはわからないと判断したのでした。
 これに対してイエス様は言われました。

14しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」

 このときイエス様は、弟子に「憤って」語られたことがマルコの福音書に記されています。

マルコの福音書10:13−14「13さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」。

 それほどイエス様にとって、このことは大切なことでした。弟子たちは霊的な祝福を与えること、祝福を祈ることにぶくなっていたのでした。
 弟子たちが、子どものことを考えなかっただけではありません。子どもを祝福してほしいと願った親の気持ちも考えなかったのでした。このように、弟子たちは、自分の考えで祝福される人、祝福されない人を決めてしまって、その人をイエス様のみこころ、救いから締め出してしまったのでした。
 イエス様は、たくさんの大人を差し置いて幼子たちを呼び寄せました。何の妨げもなければ、子どもは自然とイエス様のもとにやってきます。また、イエス様がそのように召しておられるのです。

■天の御国はこのような者たちの国

 「天の御国はこのような者たちの国なのです。」このことばには2つの意味があります。1つは、文字どおり神の国は子どもたちのものというのです。子どもたちこそが神の国に入ることができると教えられたのでした。
 ですから教会は、最初から、乳飲み子から子ども、大人まで、みんないっしょに、家族ぐるみで教会に加わったのでした。それは、教会が始まった最初の時からそうでした。

使徒の働き2:38−39「38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」」

 このように、子どもたちも約束の中に入れられていたのでした。

使徒の働き16:30−33「30そして、パウロたちを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31パウロたちは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。32そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。33……そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。」

 ここにも、家の者全部、子どもたちも洗礼を受け、教会に加えられたであろう出来事が記されています。

■素直な心で

 「天の御国はこのような者たちの国なのです」の2つ目の意味は、子どものように受け入れた者たち、そのように素直になった大人たちという意味です。子どもが親の与えるものを喜んで受け取るように、そのような気持ちで、天の御国を受け取りなさいというのです。受けるだけでいい、神様に何もお返しができなくてもいい。天の御国に入るために、子どものようになることが恵みの中を生きる信仰者の姿です。
 ですから、自分が神の国に入ろうとして、ふさわしい者になろうとしたり、何かをしなければと考えている間は、神の国を見出すことができないのです。神の国は、ふさわしくない者がふさわしいものとされ、価値のない者が価値ある者とされ、罪深い者が罪赦され、正しい者とされる所なのです。

コリント人への手紙第1、1:27−28「27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」

マルコの福音書2:17「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 何も持たずに、そのまま神様の出る者に神の国は与えられます。自分こそ与えられると思っている者には与えられません。これが天の御国でした。
 神の国がわかるか、わからないかでなく、すでにイエス様が祝福を与えようと神の国へ招いておられます。その招きに、子どものように招きに応じるのです。
 イエス様は、そのために十字架にかかろうとしておられたのでした。イエス様の十字架が私の罪を赦すため、代わりに死んでくださったと信じること。それをプレゼントとして、私たちに差し出されているのです。私たちは、これを子どものような気持ちで受け取るのです。そのことを信じ、受け入れ、告白する者がみな天の御国に入ることができるのです。

■子どものために祈る

15そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。

 イエス様は、連れてきた親たちの希望に答えられ、祝福を祈られました。子どもが自覚していようといまいと、生まれたばかりの子どもに洗礼を授ける。今日の祝福式のように子どもの成長を祈ることは、イエス様が手を置いて祈られたように、神様からの祝福であるのです。
 私たちの教会は、親や祖父母が連れて来る子どものために、また教会学校に来る子どものために、イエス様が「邪魔をしないでわたしのところに来させなさい」と言われたように、祈り、その子たちが神様から祝福をいただけるように配慮し、努めるのです。
 また私たちも、「子どものような信仰」、素直な、信頼する信仰をもって、また私たちひとりひとりの家族に、神様の祝福が届きますようにと祈りながら、今週も歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年11月13日