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2011年12月4日 主日礼拝説教
「後の者が先になる祝福」(マタイの福音書20章1節〜16節)
イエス様は富める青年の救いを通して、天の御国に入るには人間の良い行いや努力によるのでなく、神様の恵みによって与えられることを示されました。また、救いの恵みは平等であり、「あとの者が先になり、先の者があとになる」ような、逆転も起こることを話されました。それらのことを、さらにはっきりわからせようと、イエス様は弟子たちに一つのたとえ話をなさいました。
1天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
ユダヤでは忙しいぶどうの収穫時期になると、家族だけの労働では足りず、一日だけ働く労務者を雇うことがありました。この主人は、「朝早く」、朝の6時ごろでしょう、夜が明けて、あたりが明るくなったころに働き手を集めに出かけました。
2彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
「一日一デナリ」は、朝から夕方まで働いて得る正当な賃金でした。彼らは、それに不満もなく、また今日の仕事が与えられたことを喜んで、主人の管理するぶどう園の働きに就いたことでしょう。
3時間ほどたち、「九時ごろ」です。主人はまた「市場」に行って、別の働き手を雇いました。彼らは、仕事がなくて、だれかが雇ってくれるのを待っていました。主人は、はっきりとした金額を示せず、「相当のものを上げるから」という約束で、ぶどう園に連れて行きました。
主人は「十二時ごろ」にも、「三時ごろ」にも市場に行って、朝からそこに立っていた人たちを雇って、ぶどう園に連れて行きました。
こうして一日が過ぎ「五時ごろ」、それはもうほとんど仕事をする時間がない時刻でしたが、主人はなおもう一度市場に行って、ぶどう園のために働き人を雇いに出かけました。
そこに立っていた人たちに主人は尋ねました。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」そう聞かれた時に、自分たちがそれまでずっと立っていた状況を話し、こんな時間になっても雇ってくれる人がいたことに感謝の思いがわいてきたでしょう。
7彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
この答えには、だれも雇ってくれない、もう日が暮れてしまう。どうしていいかわからない見捨てられた彼らの苦しみ、悩みを表しています。主人は、この人たちにもぶどう園に行くように言いました。雇われた人は、10分の1デナリの賃金でもありがたい、という思いでぶどう園に赴いたでしょう。
しかし、それにしても、主人はなぜこのように細切れに労務者を探したのでしょうか。イエス様は、あとで種明かしをしてわかるように、この世の基準では計れない霊的世界の真理を教えようとしていたのでした。
早朝の6時、9時、12時、3時と雇われ、もう終わりだろうと思っているところに、もう働く時間のほとんどない、現実にもあり得ない「5時から」という時間をイエス様は出しました。
神様はどんなこともできる。神様の恵みの時には、もう終わりということはない、みな同じ恵みが与えられることを教えようとしていたのでした。
8こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
さて、「夕方」になりました。6時ごろです。主人は監督に、働いたすべての人に、1デナリを支払うように命じました。それは、常識ではとうてい考えられないことでした。
最初に、一番遅く来て1時間しか働かなかった者たちに、1日分の賃金が支払われました。少ない時間でも働くことができた。ぶどう園に来てよかったと思っていたところ、1デナリもらえたのです。なんと主人はあわれみ深い、寛大な人であろうと、その喜びは、だれにもまして大きかったでしょう。続いて、3時、12時、10時、6時と、遅く雇われた者から順に賃金が支払われていきました。
10最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
5時から来た男に比べると10倍以上働いた彼らでした。1デナリは約束の賃金ですし、正当の労働評価でもありました。しかし、主人の気前のよさから、自分たちは特別に多くもらえるはずだと、胸の内でそろばんをはじいていました。それが無残にも、その期待と計算が破られてしまったのでした。
彼らは、受け取った賃金への感謝もなく、ぶどう園では「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱した」のみであったと、語るのでした。
朝から仕事が与えられ、きちんと賃金の契約をし、その日の生活の保障と、不安のなかで過ごすことから解放されたことを忘れ、また遅くまで仕事に就けなかった人たちへの思いやりにかけ、他人と比べること、人より少しでも得をしたい、という思いでいっぱいになってしまったのでした。
13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
主人は「この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい」と語りました。主人の、働いた人たちへの愛の思いがあふれていました。しかも、「友よ」と語りかけ、やさしく諭しました。
15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
あなたは「ねたましく思われる」目、そのような心を持っている。私たち、だれもが持っている心の奥底にある「ねたみ」の思いを言い当ててしまったのでした。
このたとえ話の登場人物、場面は何を指しているのか、もうおわかりでしょう。主人は神様のこと、ぶどう園はイエス様の十字架と復活のあとに始まろうとする教会のこと、労務者はその教会に招かれた人たちです。
このぶどう園にたとえられた教会に、神様から呼ばれ、入って来る人は様々であり、その入ってくる時も様々です。遅く来た人たちは少ししか働けませんでしたが、それは彼らのせいではありませんでした。神様の時、呼んでくださる時があったのでした。彼らも早く雇ってもらえれば、きちんと働けたはずでした。
早朝から働いた者たちは、主人は言ったことは必ず果たしてくださるお方であることを、また一日ぶどう園にいることができたことを感謝することを忘れてしまったのでした。
14節の「私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」は、イエス様のお心であり、「わたしはあなたを愛している。あなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)と言ってくださる神様のお心でした。
イエス様は、十字架の死をもって、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。神様に呼ばれた者たちは、イエス様の十字架が私の罪を赦してくださるためであり、このイエス様を愛し、共に歩みたいという思いにさせられ教会に加えられました。
ぶどう園で働いた者たちに与えられたものは、働いた賃金ではなく、主人がそうしたいと思って与えてくださった恵みであり、恵みの報酬(ごほうび)でした。
16このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
このたとえ話は、直接には、すぐ前の「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」(19:27)と言った、ペテロの問いに対するイエス様の答えでした。
私たちはみな、12弟子より後から雇われ、あとからぶどう園に来た者たちです。招かれる状況に違いがあります。どうしてこの時だったのかは、招かれた人がそれぞれ思い、不思議に思わされることでしょう。
また、永遠のいのちは、神様が恵みとしてすべての人に与えられるものでした。私たちに与えられた恵みを感謝し、私たちも早い時に神様に呼ばれたことを感謝して、これからも歩みたいと思います。
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