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2011年12月11日 主日礼拝説教
「仕える者となられた主イエス」(マタイの福音書20章17節〜28節)
ペテロがした「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」という問いから始まったことに対して、イエス様は「あとの者が先になり、先の者があとになる」ことを、ぶどう園で働いた人のたとえ話からお話ししてくださいました。
朝早くから働いた者も、夕方の5時から働いた者も、みな同じ1デナリを受け取りました。神様からの祝福はみな同じように与えられます。それが神様のみこころであったということを教えられました。
今日は、イエス様の3度目の受難予告から始まります。
17さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。18「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。19そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
1回目は、ピリポ・カイザリヤでのペテロの信仰告白のあとでした。
マタイの福音書16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
イエス様は山に登り、そこでご自身が、栄光の輝く神の御姿に変わったことを弟子たちに示されました。2回目の予告は、山から降りて、そこにいた悪霊につかれた子どもをいやされたあとでした。
マタイの福音書17:22−23「22彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。23そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」」
そして、今回の3回目は「エルサレムに上ろうとしておられた」途中でした。3回目の予告で、イエス様は裁判にかけられ、死刑に定められ、十字架につけられることを初めて具体的に示されました。もう十字架がすぐそこ、というところまで来ていたのでした。
その時、ゼベダイの子どもたち、ヤコブ、ヨハネが、お母さんといっしょにイエス様のところにきてお願いしたのでした。
21イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
ヤコブとヨハネは、エルサレムでイエス様がダビデの王座につかれると感じていたでしょう。今までのイエス様の言動をみれば、エルサレムに入り、ローマを追い出すことなど何でもないと考えていたかもしれません。
また、だれが一番偉いのかという論争に決着をつけようとしたのかもしれません。彼らは、イエス様の御国がやってくるとき、イエス様の右と左に座りたい。今のうちにそのことを約束してくださいと願ったのでした。
彼らは、「雷の子」と呼ばれていたように熱情的だったのです。
22けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
ヤコブ、ヨハネは、何もわかっていなかったのでした。わかっていれば、そのような地位を求めるはずがなかったのでした。またすぐ前に、「先の者があとになり、あとの者が先になる」とイエス様は教えられたばかりでした。
杯とは、旧約聖書では苦難の象徴でした。イエス様が言われた「わたしの飲もうとする杯」とは、直接的には十字架でした。イエス様はゲツセマネの園の祈りで、ご自分が受ける十字架を「わたしの受ける杯」と表しました。
マタイの福音書26:39「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」」
イエス様の、あなたがたは「杯を飲むことができますか」、その苦難に耐えることができますかとの問いに対して、彼らは短く「できます」とはっきり答えました。ヤコブとヨハネは、何か苦難を覚悟したでしょう。しかし、その苦難のあとに、イエス様の近くに座ることができるかもしれないのです。
23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
イエス様はふたりに、「あなたがたはそれができる」と答えられました。確かに、ヤコブは使徒たちの中で最初の殉教者になるのでした。
使徒の働き12:1−2「1そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」
ヨハネは、12弟子の中で最後まで生き延びましたが、迫害を受け、パトモスという島に投獄されたのでした。
ヨハネの黙示録1:9「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
彼らはそのような苦難を受けました。しかし、そうなることを自分たちも決意し、そのことをイエス様もご存じであったでしょうが、「わたしの右と左にすわること」は父なる神様が定めておられること、選んでおられることであると言われたのでした。
イエス様も同じ神様であられるので、そのことをご存じであったのですが、これは、あなたがたは知ることができない、また知る必要のないことであるとおっしゃったのでした。
24このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
単に「腹を立てた」だけではありません。他の弟子たちも心の奥底で同じようなことを考えていたのでした。そこでイエス様は、12弟子全員に向かって話し始めました。
25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
この世の偉い人たちは権力をふるうが、あなたがたは仕える者になりなさい。前に「子どものようになりなさい」(18:3)と教えられたイエス様でした。今回はしもべ、奴隷のようになりなさいと勧めました。
それは、イエス様ご自身がそうであったのでした。十字架を背負って歩むこと、十字架にかかること、それは仕える歩み、しもべとしての歩みでした。イエス様は、みなのしもべになる歩み方、生き方を全うしようとしていたのでした。
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
贖いとは身代金という意味です。捕虜になった者に、お金を払って返してもらうことです。それが罪の身代わりに、代わりに刑罰を受けて、その罪が赦される、という意味で使われるようになりました。
人が罪を犯せば刑罰を受けなければなりませんでした。しかし、人類が生まれつき負っている罪は、人が創造されたとき、神様との契約を破ったことから生じた罪でした。それは、人に死をもたらしました。だから、その罪は、もう一度神様と向き合わないかぎり、神様と契約を結び直さないかぎり解決できないものでした。
神の子であるイエス様は、そのために自らのいのちで、十字架によって私たちの罪を贖ってくださり、支払ってくださったのでした。イエス様は、神様と私たちの間の道となってくださいました。
イエス様は、イエス様の十字架を信じる者に救いと、神の国を約束してくださいました。それは、イエス様が仕えることを通して私たちに与えてくださったものでした。
ヨハネの黙示録21:4「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
イエス様はしもべへの道を歩まれました。イエス様は、自分のいのちを与えることを通して、私たちのしもべとなられました。
私たちは、そのイエス様に愛され、守られていることを感謝して、これからも「涙も死もない。悲しみ、叫び、苦しみもない」道を歩みたいと思います。
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