ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年12月18日


2011年12月18日 主日礼拝説教
「わたしに何をしてほしいのか」(マタイの福音書20章29節〜34節)

■はじめに

 ヤコブとヨハネの兄弟がイエス様に願いました。イエス様が何をしてほしいのかとお尋ねになると、兄弟はイエス様の御国でイエス様の右と左の席に着きたいと願いました。今日も、イエス様はふたりの盲人に「わたしに何をしてほしいのか」と問いかけます。

■ふたりの盲人

29彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。

 イエス様はエルサレムへの途上にあります。エリコは、エルサレムへあと1日の道のりです。イエス様が行くところ大勢の人々がいました。直接の弟子たちだけでなく、今までイエス様から恵みを受けた人たち、イエス様に従っていこうと決心した人たちもいっしょでした。加えて、過越の祭りが近づいていましたので、その巡礼者たちもイエス様を囲む群集といっしょにエルサレムへ上っていました。

30すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」

 その騒ぎに、エリコの町の道ばたに座っていた「ふたりの盲人」がイエス様に気づきました。「ふたりの盲人」とありますが、マルコの福音書10章を見ると、このうちのひとりはバルテマイであったと記されています。
 彼らは、イエス様が通られると聞くと、すぐ「ダビデの子よ」と叫びました。彼らは、イエス様のことを噂で知っていたのでしょう。エリコの道ばたに座りながら、イエス様のことを聞き、この方こそ待ち望んでいた救い主だと確信しました。

■私たちをあわれんでください

 「ダビデの子よ」(救い主を意味していた)と呼びました。救い主がダビデの子孫から生まれることは、聖書の約束でした。
 ふたりの盲人は、「主よ。私たちをあわれんでください」と願いました。これは、今までは「お金を恵んでください」という意味で使っていたでしょう。今はお金の要求ではありません。彼らは、イエス様に対して「ダビデの子よ」と呼び、来るべき王、救い主であると信じ、イエス様が本当に必要なものを与えてくださるお方として求めました。それも、何度も何度も叫んだのでした。

31そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

 大勢の群衆がイエス様を取り巻いていました。彼らは、この盲人たちを物乞いかと思ってたしなめました。エリコは人通りも多く、何人もの物乞いがいて、このような光景はよく見られたのでしょう。しかし、このふたりは違いました。単なる物乞いではなかったのでした。
 どうしてもイエス様にお会いしたい。人々が止めたぐらいではあきらめません。

マタイの福音書7:7−8「7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。8だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 求め続ける信仰。一番欲しいものを求め続けるときに、神様は道を開いてくださり、その祈りに答えてくださいます。神様は私たちの必要をご存知であられ、それを与えてくださるからです。

■わたしに何をしてほしいのか

 イエス様は、騒ぎに気づかれ、立ち止まりました。

32すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」33彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

 イエス様はふたりを招き、尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのか。」黙ってお金を置けばすんでしまう状況です。それをあえてイエス様が問いかけました。「わたしに何をしてほしいのか。」イエス様は、彼らの求めをご存じであられました。これは信仰へ導く問いかけでした。
 私たちは、19章、20章でいろいろな人の求めを見てきました。富める青年は、イエス様に問われるより先に、何をしたら永遠のいのちを受けることができるでしょうか、と尋ねました。彼はイエス様に対する信仰によって救われることより、自分の行いによる救いを求めたのでした。青年は、イエス様に求める求め方を誤っていたのでした。
 ペテロは、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」とイエス様に求めました。ヤコブ、ヨハネは「あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい」と求めました。これら弟子たちの求めに対して、イエス様は、それにふさわしい答えと祝福を約束してくださいました。しかし、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」と指摘され、「先の者が後になり、後の者が先になる」ことと、「人の先に立ちたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と教えられたのでした。
 そのようなことがあってからの、このエリコの盲人たちの求めでした。ふたりの盲人はイエス様の問いに、率直、単純に求めました。それが彼らの信仰でした。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」それがかなえられると信じていました。だから彼らは「ダビデの子」と叫び、求め続けたのでした。
 彼らにとってそれは一番欲しかったものでしたが、そんなことを人に言ったら笑われるだけでしょう。しかし、イエスを救い主と信じる者は、自分の最も必要なものを求めていい。それがどんなものであっても要求していいのです。

ヨハネの福音書15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」

■かわいそうに思って

34イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 イエス様はかわいそうに思われ、その願いに答えてくださいました。イエス様は彼らの信仰を見られました。愛の心を向けてくださると信じて叫び続けた彼らの信仰をイエス様は見られたのでした。
 イエス様は、この盲人たちにあわれみをかけ、その信仰によって目を開き、救いに導いてくださいました。恵みを与えてくださったのでした。
 彼らはイエス様について行きました。イエス様に声をかけられ、信仰を与えられ、イエス様について行った最後の弟子となったのでした。

■十字架

 そのうちのひとりは、バルテマイという名でした。これから1週間もしないうちに、バルテマイはイエス様にあけてくださったその目で、十字架を背負って歩かれるイエス様を見たでしょう。十字架の上のイエス様のお姿に、イエス様のことばに、さらに深いイエス様の愛を感じたでしょう。そして、そのことを語りながら生涯を全うしたと思うのです。彼はそのことのゆえに、クリスチャン仲間に知られるようになり、バルテマイの名がマルコの福音書に記録されたのでした。
 私たちも、神様から豊かな祝福をいただくことができます。どんな小さな信仰であっても、イエス様に求めるならば、豊かな祝福、恵みを受けることができるのです。
 来週、私たちは、クリスマスを迎えます。2000年前、イザヤの預言のとおり、イエス・キリストがこの世にお生まれになりました。

イザヤ書9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」

 バルテマイは、イエス様が「ダビデの子」救い主であったことを信じました。私たちもそうです。イエス様を救い主であると信じました。
 イエス様は十字架にかかって死んだこと、イエス様が神の御子であったこと、十字架の死によって私たちの罪を赦し、私たちを滅びから救ってくださったこと、そして永遠のいのちを持つことができる道を開いてくださったこと。私たちは、イエス・キリストがそのようなお方である救い主であることを信じました。
 神様は、私たちの「主よ。私たちをあわれんでください」、「主よ。この目をあけていただきたいのです」という声を聞いてくださり、あわれみの御手を差し伸べてくださいます。そのお方に従って、今週も共に歩み、クリスマスを迎えたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年12月18日