ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年1月1日


2012年1月1日 主日礼拝(新年礼拝)説教
「わたしの家は祈りの家」(マタイの福音書21章12節〜22節)

■はじめに

 先週の箇所で、イエス様はろばの子に乗って、王としてエルサレムに日曜日に入城されました。イエス様はその週の金曜日に十字架にかけられましたので、それは十字架から5日前のことでした。イエス様は人々の歓声に迎えられましたが、エルサレムの多くの人たちは無関心、冷ややかな出迎えでした。彼らは、イエス様を十字架につける大きな声となるのでした。
 さて、今日は、エルサレム入城からすぐに起こった出来事です。マタイの福音書では入城後すぐに起こったように読めますが、実際には、マルコの福音書によって、それは翌日、月曜日の出来事であったことがわかります。

■宮をきよめる

12それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 「宮」である神殿の庭で、礼拝者のために必要なものが運び込まれ、売り買いされていました。最も必要なものは神殿にささげる物でした。
 「両替人」が必要なのは、神殿に納める貨幣がユダヤのお金で半シェケルと決められていたからでした。最も流通しているローマの貨幣は、ローマ皇帝の像が刻まれていて、神殿に納める貨幣としてはふさわしくありませんでした。ですから、どうしても両替が必要だったのでした。
 「鳩」と言われている犠牲の動物も、傷のないものでなければならなりませんでした。その鳩は、すでに祭司による検査が通っているものであり、すぐにそれをいけにえにして礼拝できるようになっていました。ですから、わざわざ遠くから動物を連れてこなくても、神殿に入れば礼拝のために必要なものは、すべて簡単に手に入れることができたのでした。
 それに対してイエス様が怒られ、「両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛け」を倒してしまわれました。神殿にいた商売人たちにすれば、神殿にささげるお金を替えてあげ、ささげ物を用意しているのに、なぜそれが悪いことなのか、と言いたくなるでしょう。
 しかしイエス様は、神殿からこれら商売人を追い出してしまわれました。

■祈りの家

13そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

 イエス様は、これら商売人を追放することによって、神殿の本来の役割である「祈りの家と呼ばれる」ことを教えようとされました。
 神殿は、そこに神様がいらっしゃることを表す建物であり、いけにえをささげ、祈りの場所でした。しかし、時代とともに人々の心も神様から離れ、神殿そのものも堕落していき、ソロモンが建てた最初の神殿は破壊されてしまいました。そのような中、イザヤは新しい神殿について語りました。

イザヤ書56:7「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

 イエス様は、このイザヤのことばを引用されたのでした。イスラエルの民はイザヤのことばのとおり、神殿を再建した時に、神殿は祈りの家となることを目指したのでした。しかし、その信仰も純粋さも失われ、「祈りの家」ではなく、いつしか「強盗の巣」になっていたのでした。
 新しい神の民のため、だれもが自由に礼拝できる場所をイエス様は求めていました。

ヨハネの福音書4:23−24「23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

■盲人や足のなえた人が宮に来る

 神殿から両替人たちを追い出されてからのことです。

14また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。

 彼らは、神殿で礼拝をささげることを禁じられていた人たちでした。しかしイエス様は、祈りの家を妨げる者として商売人を追い出しましたが、最初から追い出されていた「盲人や足のなえた人たち」には、いやしの御手を差し伸べ、神の国に招いたのでした。
 このようなことを見せられて、祭司長、律法学者たちは驚き、また子どもたちが前の日に聞いた歓声をまねして、イエス様に向かって「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたことに腹をたてたのでした。

15ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。16そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 イエス様は詩篇8篇を引用され、イエス様への賛美は、それがたとい子どもの賛美であっても、神様は受け入れ、またそのような賛美を神様は喜ばれることを話されました。

■いちじくの木を枯らす

 さてその翌日のことです。火曜日になります。

18翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。19道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 しかし、この時はいちじくのなる季節ではなかったのでした。いちじくの食べごろは秋であり、今は春なので実がないのは当たり前でした。ところが、イエス様はそれでも、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われたのでした。このいちじくの木は枯れてしまいました。

20弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」

 イエス様は、このしるしによって何を教えようとされたのか、弟子たちはよくわかりませんでした。そのいちじくは、葉ばかり茂って、実がなっていませんでした。前の日、イエス様は、神殿から商売人を追放することによって、神殿は「祈りの家」となることを教えられました。翌日の火曜日、このいちじくのしるしを通して、イスラエルの信仰は葉だけが茂って実を結ばないことを示されたのでした。
 神殿に来ることだけが目的の、そこでささげ物をすれば罪が赦される。そのように形式化されてしまった神殿礼拝ではなくて、祈りの家で祈りがささげられる礼拝を教えてくださったのでした。

■山に向かって

 祈りとはどのような力を持っているかを弟子たちに示したのが、枯れたいちじくを前にして語られたことばでした。

21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。22あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

 イエス様の十字架が3日後に起ころうとしていました。イエス様は、十字架で私たちの罪を負い、代わりに死のうとしていました。そのイエス様を信じ、神様を信じ、疑うことなく山に向かって「動いて、海に入れ」と祈れば、そのようになるという約束でした。比喩として語られたものですが、そのような大きな祈りの力を教えてくださいました。
 私たちの罪の赦しは、イエス様の十字架によって与えられました。私たちは、その信仰の歩みを歩んでいます。私たちは、祈りの生活によって、豊かな喜びの生涯を送ることができるのです。それは祈りとともに、御霊の働きによって実現するのです。
 私たちは、どこででも、だれもが自由に礼拝でき、祈ることができるよう日々を与えられています。そのような信仰が与えられ、このような礼拝ができる恵みを感謝いたします。
 この1年、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」というみことばを覚え、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」という約束に感謝し、日々祈りの中で神様とともに歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年1月1日