ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年1月22日


2012年1月22日 主日礼拝説教
「選ばれる者たち」(マタイの福音書22章1節〜14節)

■はじめに

 イエス様が受難週(金曜日に十字架にかかられる週)の火曜日に、たくさんのことを行われたことを見ています。イエス様は火曜日の早朝、神殿に行く途中、実のなっていないいちじくの木を枯らせ、その後神殿で教えているとき、祭司長、長老たちから「あなたは何の権威によってこのようなことをしているのですか」と質問されました。イエス様は、それに対して直接何もお答えになりませんでしたが、たとえ話を通してユダヤの指導者に対して、悔い改めない態度とこれから犯そうとしている罪を指摘されました。また、イエス様がどのようなお方であるかも示されました。
 祭司長、長老たちに「ふたりの兄弟のたとえ」「悪い農夫のたとえ」の2つのたとえ話をなさいました。先週は、2つ目の「悪い農夫のたとえ」から、ユダヤの指導者たちがイエス様を殺そうとしていること、しかし、イエス様は殺されることによって礎の石となること、また今までユダヤの指導者たちにゆだねられていた神の国が、新しく異邦人たちに開放されていくことを示されました。
 さて今日もたとえ話です。21章から数えて3つ目のたとえ話は「結婚披露宴のたとえ」です。

■結婚式の披露宴

1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

 天の御国、神の国は、「王子のための結婚披露宴」に招かれているようなものであると言うのです。
 イスラエルでは、宴会を開こうとしたら、まずだれを招待するか決めて通知します。それは当たり前でしょうが、次が私たちのやり方と違っていました。

3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。

 あらかじめお知らせしていた人たちに、当日宴会が始まる前に、もう一度人を遣わして宴会に招きます。「宴会の用意ができました。始まる時間になりました。どうぞおいでください。」王様からしもべが遣わされ、それに答えて着飾った招待客が次々と到着して、宴会が盛大に開かれるはずでした。ところが、招待された者たちが宴会に行くことを断ったのでした。

4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』

 断られた王様は「別のしもべたちを遣わし」ました。これは神様の、ユダヤ人たちを神の国へ招きたいという思い、また神様の忍耐と恵みの豊かさを示しています。

5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 そのような王様の心を踏みにじって、招待され者たちは好き勝手なことをし、遣わされたしもべたちを殺すことさえしたのでした。

■王は町を焼き払う

7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

 王様は、遣わしたしもべたちを殺した者だけでなく、町ごと焼き払ってしまいました。その町に住んでいた人たちは、神様の招きを受けていたユダヤ人たちでした。彼らは王子の結婚披露宴に招かれていて、最後の招きを受けたのでした。彼らは「ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」と、自分の都合で大事な宴会を断ってしまったのでした。
 ユダヤ人たちは、自分たちは神の特別な選びを受けた選民であり、救いはまず自分たちに与えられると信じていました。そこにバプテスマのヨハネが現れ、次いでイエス様がやって来られました。ところが、イスラエルの指導者たちは、イエス様を救い主として受け入れられなかったのでした。

■宴会場をいっぱいにする

8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 招待者たちが来ないとわかったとき、王様は「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」、連れて来なさいと命令するのです。
 彼らとは、イエス様が招いた人たちでした。 「だれからも相手にされなかった人、取税人、病人、ツァラアトの人たち、また遊女、罪人と言われていた人たち」もそうでした。落ちこぼれた人たち、神の国に入れないと言われていた人たちです。いわば、神の招きからもれていると考えられていた人たちでした。
 そして異邦人たちでした。「出会った者をみな」と言っています。前もって招待を受けていたわけではなく、招かれることも予想してなかった彼らは、救い主が来ることなど全く知らなかった人たちでした。しかし彼らは、神様の救いのご計画に入っていたのでした。
 本来、招かれる資格のあった人々に代わって宴席に座り、ごちそうにあずかることは、招かれた人には全くの恵み、思いもよらない恵みでした。それが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちに生きることを願う、愛の神様のみこころでした。神の国のすばらしさを多くの人に味わってもらいたいと願っている神様のみこころでした。

■礼服を着ていなかった人

 さてどんな人が宴会場にいるかと、王様がやって来ました。

11ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。

 連れて来られた人たちの中に「婚礼の礼服を着ていない者」がいました。大通りで呼ばれて、披露宴に来た人でした。みな、だれも礼服など用意していなかったでしょう。それで王様のほうで、披露宴に出るための礼服を用意していたと考えられます。しかしこの人は、用意された礼服を着ていなかったのでした。
 彼は、王様に「どうして礼服を着ていないのか」と尋ねられても、何も答えませんでした。彼は外に放り出されてしまいました。彼はせっかく招かれていながら、なぜ礼服を着なかったのでしょうか。礼服とは何なのでしょうか。

ガラテヤ人への手紙3:26−27「26あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。27バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」

 礼服とはキリストご自身でした。礼服を着る、「キリストを着る」とは、キリストへの信仰、キリストとともに歩む生涯、またキリストから与えられた恵みを感謝することです。それはイエス様の十字架の死によって、私たちに与えられたものでした。
 礼服を着ていない人とは、そのキリストの恵みを素直に、感謝して受け取ることができなかった人でした。

■選らばれる者たち

14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 私たちは、「招待される者は多い」のに、それでも断った人の中に、人間の姿を見ることができます。なんとかして救いたいという神様のみこころを無視して、その招きを後回しにしてしまう人間の姿です。そのような人たちは、神の招きよりも、今の生活、自分の都合を優先してしまい、理由にならない理由をつけてイエス様のもとに来ないのです。
 また「選ばれる者は少ない」ということばに、神様の恵み、神様のほうで選んでくださっている恵みを見ることができます。神様と何の縁もないと思っていた人たちを、神様が自分の招きを受けるようにと選んで呼びかけてくださっています。主イエス・キリストにおいて示された神の愛とは、このような招きです。資格がないと思っている人を選んでくださり、招いて宴会に座らせてくださいます。これは恵みと呼ぶしかありません。
 神様の招きを受けるとは、その神様の愛に気づくことです。神様の愛の招き、恵みの招き、無条件の招きに素直にゆだねることです。信じるとは、信仰とはそういうことです。
 招待される人は多いのです。そのなかで私たちは、イエス様が少ないと言われた「選ばれる者」であったことを感謝したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年1月22日