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2012年2月5日 主日礼拝説教
「生きている者の神です」(マタイの福音書22章23節〜33節)
受難週の火曜日にあった出来事を見ています。イエス様が神殿でお話ししている時に、最初、ユダヤ教の指導者「祭司長、長老」たちがイエス様に質問しました。「あなたは何の権威によってこのようなことをしているのですか。」
2番目は、パリサイ人とヘロデ党の者たちがそろってやって来ました。彼らの質問は、時の支配者であるローマに税金を払うべきかどうかでした。イエス様はそれに対して「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と答えられました。それは、社会から政治的・経済的な恩恵を受けているなら税金を払いなさい。しかし、その社会が神様の領域を犯した時は、神様の側に立ちなさいということでした。また、私たち人間は神様に造られたもの、神様の像が刻まれたものでした。神の像が刻まれている私たちは、私たち自身を神に返す生涯を送るようにイエス様は教えられました。
今回は、3番目の質問になります。
23その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、24言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない』と言いました。
「サドカイ人」人は、パリサイ人と並ぶユダヤ教の有力な一派でした。富める支配階級であり、祭司として当時のユダヤ議会の議員の大半をしめていたグループでした。復活を認めていなかったサドカイ人は、復活を信じることは理論的におかしいことを問題にしました。
サドカイ人が言った「もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない」は、モーセの律法にあることでした。こうして生まれた子に亡くなった兄の名前を名乗らせ、兄の遺産を相続させます。財産は家族に残り、妻の生活も保証されたのでした。
サドカイ人の質問はこうでした。
25ところで、私たちの間に七人兄弟がありました。長男は結婚しましたが、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。26次男も三男も、七人とも同じようになりました。27そして、最後に、その女も死にました。28すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
7人の兄弟がいて、次々と男の兄弟は亡くなり、7人の弟たちはみな長男の嫁と結婚することになりました。もし復活するとすれば、その時は一体その女はだれの妻なのか。まさか、7人の男の妻になるわけにはいかないでしょう。だから、こんな不合理なことが起こる復活などないというのです。
イエス様は答えられました。
29しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。30復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。
イエス様の答えの1つ目です。復活の世界で結婚関係、人間関係はどうなるのかをイエス様は語りました。サドカイ人は、復活の世界と今の世界が同じであると考えたから、質問のようなおかしさがあったのでした。
当時は子どもを生み、後継ぎ、子孫に自分の名と土地を受け継がせることが、結婚の最大の目的でした。ところが復活の世界では、もはや死ぬことがないのですから、名前や土地を相続する者は必要ありません。それでイエス様は「めとることも、とつぐこともありません」、そのような子孫を残すための結婚はないと言ったのです。
復活した者は、第一義的にはだれだれの夫、だれだれの妻ではなく、神の子です。神様との関係、神の子同士の新しい愛の関係に入れられるのです。天の御国ではこのようだとあります。
ヨハネの黙示録22:3−4「3もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、4神の御顔を仰ぎ見る。」
神様に仕え、神様の御顔を仰ぎ見るところが天の御国でした。それをイエス様は、「天の御使いたちのようです」と語りました。御使いのようにすばらしい、栄光に満ちた存在になるというのです。神様と直接、お会いできる、交わりができる、そういうすばらしさを味わうことができるのです。
だからと言って、天国において、夫婦、兄弟、友人、親子が見知らぬ者同士になるのではありません。それぞれ、天国での新しい関係、新しい交わりに入れられるのです。
イエス様の、サドカイ人に対する2つ目の答えです。
31それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」は、出エジプト記3章に出てきます。モーセがエジプトから追われて、逃亡生活を40年間過ごしていた時に、神様がモーセに現れ、エジプトにもう一度帰り、イスラエルの民を率いて、エジプトから脱出するように言われた場面です。その時、神様はご自分を「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃったのでした。
「アブラハム、イサク、ヤコブ」の3人は、親、子、孫の関係にあります。モーセにとって、先祖である「アブラハム、イサク、ヤコブ」は何百年も前の人でした。神様はアブラハムに、アブラハムの子孫を空の星のように、海の砂のように、数え切れないほど増え広がると約束されました。そして、カナンの地、今のイスラエルの国のある地を与えると約束されたのでした。
ヤコブのとき、アブラハムの子孫はエジプトに移住しました。66人の家族でした。それから何百年かたち、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、大人の男子だけで60万人以上に増えていました。しかし彼らは、その時エジプトの奴隷となっていました。
何百年ぶりにモーセに現れた神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神であるとおっしゃいました。昔むかしに死んでしまって、今は地上にはいない「アブラハム、イサク、ヤコブ」は、天の御国で生きていて、神様はその人たちの神であるとおっしゃったのでした。
復活はない、永遠のいのちはない、いのちは地上で終わりと考えていたサドカイ人は、この答えに反論できなかったでしょう。そして、それを聞いていた群集もイエス様の答えに驚嘆したのでした。
神様は生きている者の神です。神様がその人の神様であることは、今、地上で生きている時も、地上のいのちが終わった時も、そうなのです。神様によって選ばれ、神様がその人を救いに導かれた者は、永遠のいのちが与えられます。神様を信じた私たちは永遠のいのちが続いているので、神様は、永遠に私たちの神であり続けるのです。
私たちは、キリストを信じた時から永遠のいのちを生きています。そのいのちによって、地上を生かされているのです。
死によってそれで終わりではないということを知ったならば、今を生きる私たちに、死の直前まで希望と喜びの人生を送ることができるのです。だから私たちの歩みに、喜び、感謝、平安があるのです。しかし地上の喜びの歩みは、天国の喜びのほんの一部にすぎません。
私たちは、天国での永遠のいのちに生きる喜びを目指し、そして再びイエス様がおいでになる時に与えられる、この体の復活をも信じて歩んでいます。私たちは今日も、神様が約束された永遠のいのちを生き、復活の希望をもって歩みたいと思います。
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