ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年2月12日


2012年2月12日 主日礼拝説教
「大切な戒め」(マタイの福音書22章34節〜40節)

■はじめに

 21章18節から始まった、受難週の火曜日に起こった出来事を見ています。イエス様がエルサレムの神殿で人々にお話ししていたところに、ユダヤ教指導者たちが次々とやってきて質問をしました。
 最初の質問者は、ユダヤ教の指導者「祭司長、長老」たちでした。「あなたは何の権威によってこのようなことをしているのですか。」
 2番目は、パリサイ人とヘロデ党の者たちがそろってやって来ました。彼らの質問は、時の支配者であるローマに税金を払うべきかどうかでした。
 3番目は、復活を信じていなかったサドカイ人からの質問でした。イエス様はそれに対して、復活のいのちを生きる天の御国では、この世の関係とは違った新しい神の子としての歩みがあり、また神様は生きている者の神であると教えてくださいました。神様にあって死んだ者たちは天の御国で今も生きていて、神様はその人たちの神様であり続けるのでした。
 4番目に来たのは「パリサイ人たち」でした。

■大切な戒めは何か

34しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。35そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

 イエス様がサドカイ人がした復活についての質問に見事答えられたので、パリサイ人たちが相談し、仲間の律法学者のひとりをイエス様のもとに送りました。

36「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」37そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』38これがたいせつな第一の戒めです。

 パリサイ人たちは、律法の中から何百もの戒めをまとめ上げ、それを人々に教えていました。ですから、この質問は彼らにとっても大切な問題でした。イエス様はその問いに対して、申命記のことばを挙げられました。

申命記6:4−5「4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。5心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 これは、ユダヤ人たちが礼拝のたびに唱え、また幼いころから教えられてきたことばでした。申命記はこのあとこう書かれています。

申命記6:6−9「6私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。7これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。8これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。9これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」

 ユダヤ人の中で最も律法を重んじていたパリサイ人は、この教えも当然のように守っていました。彼らの家の門にこの戒めが書かれ、手首にも、額にも、そのことばが結び付けられていたのでした。
 神様は唯一無比のお方であり、そのおひとりの神様に、私たちは従順と献身の思いをささげなければならない。それも「尽くして、尽くして」といくつも並べられるような思いをもって、この神様を愛するようにと言っておられるのです。
 イエス様は続けて、大切なのはこの一つではなく、もう一つの戒めも挙げられました。

39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 これは、レビ記にあることばでした。

レビ記19:18「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」

 イエス様は大切な戒めはと聞かれ、この2つを挙げられました。イエス様は、2つが1つとなって、それが大切な戒めとおっしゃりたかったからでした。
 パリサイ人は、なぜこのような質問をしてイエス様をためそうとしたのでしょうか。パリサイ人は、いつものようにイエス様をわなにかけようとしていたと思われます。彼らは最初の答えを予想していて、イエス様がそう答えたなら「それなら、ただひとりの神を愛していないローマはどうなのだ。彼らは偶像の神々を押しつけようとしている」と言って、イエス様に反ローマのことばを言わせようとしていたのでした。
 しかしイエス様は、最初の1つだけではなく、2つ目の戒めを語り、その2つが大切であり、しかも「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている」、聖書全体がこの教えに要約できると答えました。
 マタイの福音書はここで終わっていますが、マルコの福音書12章を見ると、「先生、そのとおりです。まさにそのとおりです」と答えたとあり、それ以後、だれもイエス様にあえて尋ねる者がいなかったと記して終わっています。

■イエス様にとって大切な戒め

 では、イエス様がここでおっしゃった大切な戒めは、イエス様にとって何だったのでしょうか。それは、イエス様がそのことを、ことばだけではなく身をもって実践しようとしていたことでした。
 イエス様は、1つ目の「神を愛するとは」をイエス様の生涯を通して、どういうことか示してくださいました。それは、神様のみこころに全く従って歩むことでした。

ヨハネの福音書10:38「わたしが天から下って来た(地上で生まれた)のは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方(神)のみこころを行うためです。」

 それが、たとい受け入れられないものであっても、イエス様はそれを受けてくださったのでした。十字架を前にして、イエス様は恐れて、「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。しかし、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られ、十字架に向かわれたのでした。
 2つ目の「隣人への愛」については、この隣人は、パリサイ人の理解では「イスラエル人とイスラエルに住んでいる外国人」を指していました。しかし、イエス様は異邦人や、ユダヤ社会から除外されていた人たち、取税人、遊女など、さらに自分を憎む者、自分を殺そうとした者まで含まれました。イエス様は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の隣人から、どのような人も除外されなかったのでした。それがイエス様の十字架の愛でした。

ローマ人への手紙5:6−8「6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 イエス様の十字架の愛は、「不敬虔な者」、罪人のためにいのちを捨てる愛でした。敵をも愛して、十字架で敵のために祈ったイエス様でした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られたイエス様でした。
 イエス様はこのように神様への愛と、人への愛を十字架によって全うされました。そのようにしてくださった神様を、イエス様を私たちは愛するのです。そして、神様を愛するその愛を、隣人に表すのです。

■新しい戒め

 そのことをイエス様は、最後の晩餐の席で、新しい戒めとしてこのように教えられました。

ヨハネの福音書13:34−35「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 また同じヨハネが、後にこのように手紙に書きました。

ヨハネの手紙第1、4:20−21「20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」

 イエス様は、神様を愛すること、人を愛することを究極の愛(十字架)で示してくださいました。
 神は愛です。私たちができることは、神様、イエス様への感謝あるのみです。その感謝の中から、神様を愛し、隣人を自分自身のように愛することが生まれてくるのです。私たちは、この一体となっている2つの命令を、身をもって成し遂げてくださったイエス様に感謝して、これからも歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年2月12日