ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2012年2月19日
2012年2月19日 主日礼拝説教
「ダビデの主イエス・キリスト」(マタイの福音書22章41節〜46節)
イエス様がエルサレムに入城され、21章18節から始まった受難週の火曜日の出来事を読んでいます。ユダヤ教指導者たちからの質問が続きます。最初の質問者は、ユダヤ教の指導者「祭司長、長老」たちでした。「あなたは何の権威によってこのようなことをしているのですか。」2番目は、パリサイ人とヘロデ党の者たちがそろってやって来ました。彼らの質問は、時の支配者であるローマに税金を払うべきかどうかでした。3番目は、復活を信じていなかったサドカイ人からの質問、永遠のいのちについての問題です。
4番目の質問は「パリサイ人たち」からの「律法の中で大切な戒めはどれか」でした。イエス様は1つではなく、2つの戒め、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を答えられました。イエス様は、この戒めは別々にあるのではなく、2つが1つとなって聖書全体をまとめる大切な戒めである、とおっしゃいました。イエス様は、この2つの戒めをその生涯を通し、また十字架によって、それがどういうことかを身をもって私たちに示してくださったのでした。
そのあと、今度はイエス様のほうからパリサイ人たちに問いかけます。
41パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。42「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」
キリスト(救い主)はダビデの子孫から生まれると預言されていたので、「ダビデの子」と呼ばれました。その預言が旧約聖書にたくさんあります。
エレミヤ書23:5「見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」
イエス様をこの称号で呼んだ人たちがいました。
マタイの福音書12:23「群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」」
マタイの福音書20:30「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」」
そのように、だれもが「キリストはダビデの子孫として生まれる」と信じていたことを、改めてイエス様がパリサイ人に「キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか」と問いかけたのでした。パリサイ人は、当然のように「ダビデの子です」と答えました。
43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、44『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。
これは詩篇110篇1節のことばですが、「主は私の主に言われた」がわかりにくい表現です。この「主」は、ギリシヤ語では同じことばなので、日本語も同じ「主」と訳してあります。旧約聖書の詩篇、ヘブル語では、違うことばを使っています。最初の「主」は、主なる神様を表す字が使われていて、日本語ではゴシック文字(太字)の「主」と訳されています。2番目の「主」は、主人を表す意味の字が使われています。
ダビデはこう歌ったのでした。
詩篇110:1「【主】(なる神)は、私(ダビデ)の主(キリスト)に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」
続けてイエス様は、こうおっしゃいました。
45ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」46それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問をする者はなかった。
イエス様は、このことを通して、キリストは単なる人としてのダビデの子ではなく、またダビデが「私の主」と呼ぶキリストは、この世の見える王ではなく神の右に座すお方であると言いたかったのでした。
もう一度詩篇110篇を見てみましょう。
詩篇110:1「【主】(なる神)は、私(ダビデ)の主(キリスト)に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」」
「右の座」とは、中央に座る主なる神様の右の席です。右に座る者は、代理者としての権限を持っています。キリストは死からよみがえり、天に昇り、神様の右の座に着いておられることを言っています。キリストは、今はこの世界を父なる神様と同じ権限によって世界をご支配くださっているのです。
そして、世の終わりに、神様が「あなたの敵をあなたの足台とする」時がやって来ます。「あなたの敵」とは、キリストの敵であるサタンとその配下の者たちのことです。これは、終わりの時にすべての悪の力が滅ぼされ、キリストが完全な勝利者になることを予告しています。
現在イスラエルは、ローマ帝国の支配下に置かれ、ローマから派遣された総督によって国が治められています。人々は、自分たちを苦しめている敵・ローマを打ち破り、イスラエルに独立をもたらしてくれる地上の王、ダビデの子キリストを待ち望んでいました。人々は、イエス様こそ、そのキリスト「ダビデの子」であり、今に立ち上がり、先頭に立ち、ローマを駆逐すると信じました。
イエス様の生涯で、その機運が一気に高まったのが5000人のパンの給食の時でした。その時もイエス様は、ご自分の使命はこの世の王となり、パンを与えることではなく、ご自分が「いのちのパン」となって、(それは、十字架の死を意味していましたが)そのパンを食べる者、信じる者に永遠のいのちを与えるとお話ししました。そのあと多くの人が「これはひどいことばだ、期待はずれだ」と言って去って行きました。
イエス様は、2日前、ろばの子に乗ってエルサレム入城されました。その時、イエス様は民衆に「今こそダビデの子がエルサレムに来られた」と熱狂的に迎えられました。人々はまだ、社会を変える地上の王を期待していたのでした。
そこでイエス様は、この詩篇を使って、ご自分は地上的な、民族的なダビデの子キリストではないことを示そうとされたのでした。このあとイエス様は、捕らわれることになりますが、その裁判の時、「わたしの国はこの世のものではない」とローマ総督ピラトの前ではっきり語りました。
ヨハネの福音書18:36「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」
弟子たちはそのことが理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架、復活、昇天後、イエス様の十字架から50日たったペンテコステの時に、聖霊が弟子たちに与えられました。
その時、ペテロはこう語りました。ペテロはイエス様が言われた詩篇110篇の意味がわかりました。今や、はっきりとイエス様が何をなされたのか、どこにおられるのか、今何をしておられるのか、これから何をしようとされるのか、理解できたのでした。
使徒の働き2:34−36「34ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。35わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」」
キリストは主であり、神の子です。今や、ダビデが預言したように、イエス様は神の右に座しておられるお方です。そのお方をあなたがたは十字架につけたのです、と迫ったのでした。
イエス様とユダヤ教指導者との論争はここまででした。彼らにできることは、もはや論争ではなく、政治的な力を使ってイエス様を葬り去ることだけでした。
神様は、私たちのために見える形で、「ダビデの子」イエス・キリストとして、この世にお生まれくださいました。この人のかたちを取られた神の御子キリストは、十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負ってくださり、復活されたお姿を弟子たちに示して、神の御子であることを示されました。イエス様はこの時、この世の国ではない、この世をも支配する神の国の王となられたのでした。
私たちは、このキリストを信じてこれからも歩みたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2012年2月19日