ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年3月4日


2012年3月4日 主日礼拝説教
「天の御国に入る者」(マタイの福音書23章13節〜28節)

■はじめに

 イエス様は23章から、律法学者、パリサイ人に対して、彼らの教えと行いが一致していないことを語り始めました。3節後半「彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」
 イエス様は、律法学者、パリサイ人のようではなく、みなに仕える者になるように語りました。「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(11、12節)。
 13節からイエス様は、「律法学者、パリサイ人」に対して、「わざわいだ」と7回も彼らの悪いところを取り上げて糾弾します。それは、イエス様の嘆きのことばでもありました。
 14節はカッコに入っています。この節は、新改訳聖書の欄外に「異本に、この節を欠くものもある」とあるように、有力な古い写本には載っていないもので、マタイが最初に書いた福音書にはなくて、後代の人が書き加えたものであると言われています。
 「律法学者、パリサイ人」は、最後の最後までイエス様の教え、救いに背を向けていました。イエス様は、これまで「律法学者、パリサイ人」に対して、最も熱心に語ってきました。それでもイエス様に救いを見出せなかった人たちが「律法学者、パリサイ人」でした。彼らは、イエス様から「わざわいだ」と言われるしかなかったのでした。

■神の国に入らせない

13わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。

 彼らは、神の国へ入らず、また人々をさえぎっていました。彼らは、天の御国の喜びを伝えませんし、自分たちも、その喜びを受けようとしていませんでした。律法を人々に教えながら、その先にある天の御国の喜びを伝えなかったのです。そのことをイエス様は、まず「わざわいだ」と語りました。

15わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

 「律法学者、パリサイ人」は、ユダヤ教へ改宗させるために、「海と陸とを飛び回り」とあるように苦心を重ねたことでしょう。しかし、そのせっかくの改宗者も、彼らの教えによって、さらにひどい律法的なユダヤ教信徒にしてしまうのです。本来なら「神の子」にしなければならないのに、「ゲヘナの子」にしてしまうのです。「ゲヘナ」とは、死後に受けるさばきの場を表すことばです。
 せっかくの改宗者も、神の子として、神の国のすばらしさを知ることなく、この世での厳しい律法に縛られた生活を送るだけの、喜びのない、まさに「ゲヘナの子」のように歩むしかない信徒であったのでした。

■本質なものを失っている

 次いで彼らが、本質的なものを見失っていることを語りました。まず16−22節の誓いついてです。
 「律法学者、パリサイ人」たちは、神様への忠実さを示すために、しばしば誓いをしました。しかし、彼らは「神殿」よりも「黄金」、「祭壇」よりも「供え物」のほうがたいせつであるとしました
 彼らは、誓うときに、神様にささげるお金や供え物がどうであるかによって、神様への誓いの重要さを変えていたと思われます。ですから重要な誓いと、さほど重要でない誓いがあり、あるいはすぐに誓いのことばを使ってしまうことがあったのでした。
 ところがイエス様は、誓いはすべて神様を覚えて行うようにと教えていました。ですから、イエス様が教える誓うこととは真剣勝負でした。できることはできる、できないことはできない、としなさい。むしろ誓うことは、軽々しく行わないように、また誓う、誓わないに関係なく、行いは誠実に果たさなければならないことを教えられたのでした(マタイ5:33−37)。

ヤコブの手紙5:12「私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。」

 さらに10分の1を納めることについても「わざわいだ」と語りました。

23わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。

 「十分の一を納める」とは、農作物、家畜、また働きの賃金、それらはすべて神様から与えられたものであり、その10分の1は神様にお返しし、10分の9で生活するようにという教えです。
 それは旧約聖書の教えですが、新約聖書はその精神を受け継ぎつつ、献金は感謝の心をもって、それぞれが決めたとおりに、分に応じてささげるようにと教えています。

コリント人への手紙第2、9:7「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

 10分の1を納めることは、神様への感謝とともに、助けを必要としている人々へのあわれみの心を生み出すものでした。彼らは、「はっか、いのんど、クミン」など、小さい野菜や香料まで、すべての収穫物に、厳密に10分の1を納めるように教えていましたが、貧しい人へのあわれみの心、神様への誠実の心を失っていたのでした。

24目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。

 ぶよもらくだも、ユダヤ教で食べることを禁じられた生き物でした。彼らは神経質に、ぶよが入っているかどうか、それを食べないように、こして調べているのですが、らくだは平気で飲み込んでいるというのです。彼らは小さいことにこだわって、本当にたいせつなことを忘れていたのでした。
 天の御国に入ることができるかどうかは、そのようなことを忠実に守り、果たしたかではなく、まず神様を愛することでした。それと自分を愛するように隣人を愛することでした。神様を信じ、神様を愛する人は、神様が「自分を愛するように隣人を愛する」ように導いてくださるのです。

■うわべより心

 25節から28節にある2つの「わざわいだ」は、心を問題にされました。

25わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。26目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

 彼らはうわべにこだわって、きれいにしようとしますが、心の中は少しもきよくなっていませんでした。まず内側をきれいにしなければなりませんでした。罪や汚れは外から入るのではなく、心の中から出てくるとイエス様は言われました。

マタイの福音書15:18−20「18しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。19悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。20これらは、人を汚すものです。」

27わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。28そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 イスラエルでは、お墓にさわると汚れると言われていました。それで、目立つように、お墓を白く塗っていました。そのお墓のように外側だけをきれいにしようとしているのが彼らでした。

■心を見ておられる神

 彼らは、天国への道を閉ざしていました。彼らは、聖書の教え、律法の本質を理解していませんでした。彼らは心を問題にせず、たえず外側、見栄えを問題にしていました。彼らは神を知っていると言いながら、神が心の中を見抜くお方であることを忘れていたのでした。

詩篇33:13−15「13主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。14御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。15主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」

 私たちは、この神様を知ることができました。そして、私たちの心の中をご存じであられる神様が、私たちの思い、行いを赦し、私たちを解放してくださるためにしてくださったのがイエス様の十字架でした。そのことを信じるように召された者は、天の御国に入る者となったのでした。
 私たちは「律法学者、パリサイ人」の教えのもとにいるのではなく、イエス様の恵みの教えのもとにあります。そのことを今日も感謝して、歩み出したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年3月4日