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2012年3月18日 主日礼拝説教
「すべての国民にあかしされ」(マタイの福音書24章1節〜14節)
イエス様がこの日、火曜日に朝早くベタニヤを出て神殿に向かわれました。神殿で、権威の問題、税金の問題、復活の問題、一番大切な戒めなどを、ユダヤ教の指導者たちと論じ合いました。もうだれもイエス様にあえて質問する人がいなくなったあと、イエス様は、律法学者、パリサイ人たちについて話し始めました。
それが23章でした。イエス様は、「あなたがた弟子たちは、これら律法学者、パリサイ人たちのようであってはならない」と諭されました。そして、夕方になり、神殿を去り、宿舎にしていたベタニヤに帰ろうとされた時のことです。
1イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。
帰る途中、弟子たちは、神殿のすばらしさをイエス様に語りました。「何とすばらしい建物でしょう」と。彼らは、エルサレムと比べるならば、ずっと田舎のガリラヤ地方出身であったので、みごとな神殿の建物に改めて驚きの声をあげたのです。
この神殿は、ヘロデ大王(イエス様の誕生の時に支配していた王)によって建て始められました。ヘロデ大王はすでに死に、当時、建設開始からすでに40年以上たっていましたが、まだ完成していませんでした。神殿は入念に造られ、その美しさは目を見張るほどでした。その神殿の一部が、今も「嘆きの壁」として残されています。
2そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
弟子たちは、この神殿のすばらしさに驚嘆し目を奪われていましたが、イエス様は、未来のことに目を向けておられました。「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と、神殿がいつかは徹底的に壊されることを預言されました。それは、人間の造ったものは、いかに壮大で美しくても、それはいつしか、必ず滅びるものであることを教えています。
そしてまた、エルサレム神殿は旧約時代の礼拝の場所であり、それが滅び、新しい時代が来ること、またイエス様の教えはユダヤ人だけでなく、全世界に伝えられ、もはや神殿は不要になることを教えていました。
3イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
イエス様と弟子たちは、エルサレムを出て、オリーブ山に行かれ、そこに座りました。そこからは、谷を隔てて、夕日に輝く美しい神殿が見えました。「弟子たち」がイエス様にそっと尋ねました。「いつ、そのようなことが起こるのでしょう」「どんな前兆があるのでしょう」と尋ねました。
ユダヤ人にとって、神殿が滅びる時は世の終わりだと考えていましたので、弟子たちの質問は、この世の終わりについて、イエス様の再臨の時についての質問だったのです。
4そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。5わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
そこで、イエス様は、弟子たちに話し始められます。
前兆の第1は、「私こそキリストだ」と名乗り出す者、自分こそメシヤであると自称する者、にせキリストが現れて、「多くの人を惑わす」と言うのです。
6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
第2は、「戦争のことや、戦争のうわさを聞く」ということです。平和だと思っていた世界は戦争に巻き込まれ、人々の心は不安に襲われます。しかし、「あわてないようにしなさい」、なぜなら「これらは必ず起こること」であり、「終わりが来た」のではないからです。
7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
第3は「ききんと地震」という自然的災害です。自然も「新しい天と地を」生み出すために神様から揺さぶられます。しかし、まだこれらはまだ始まりであり、それは「産みの苦しみの初め」でした。
陣痛は苦痛ですが、待ち望んでいた子どもが生まれるという喜びが待っています。神様の約束を信じる私たちにとって、終末を前にした前兆は、苦痛ではなく、神の国が実現するという喜びに結びついた苦しみでした。
9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
第4は、弟子たち、教会に対する社会からの迫害です。64年、ローマのネロ皇帝の時代に、ローマに大火が起こり、その責任をキリスト者に押しつけ、キリストを信じる信徒たちは殺されていきました。マタイの福音書はそのころ、60年代に書かれたと言われています。現実に、そのようなことが目の前に起こっていたのでした。
10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。11また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。12不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
悲しいことに、迫害の時には、「互いに裏切り、憎み合う」ことが起こります。「にせ預言者が多く起こり」「不法がはびこり」「愛は冷たくなります」。これが第5の前兆です。教会内での背教と教会内の愛がさめていくのです。
しかし、そのような中でも、主の恵みが約束されていました。「最後まで耐え忍ぶ者」は救われるのです。それも、神様が支え、神様が弟子たちを担ってくださるから、弟子たちは最後まで耐えることができ、そして救われることができるのです。
当時、地震もききんも、戦争も、迫害も、頻繁に起こっていました。教会は、イエス様の再臨は、すぐにでも起こると期待しました。そうではなく、まだ神様の定めた期間が過ぎなければならなかったのです。
14この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。
「福音は全世界に宣べ伝えられる」のです。それが、第6の前兆です。この世からの迫害と、内からの背教の中で、神様のことばが押し込められてしまうような状況のなかで、福音があらゆる民族に伝えられていくのです。
この世のものが崩壊していく。それは世の終わりのしるしですが、世の終わりそのものではありません。また世の終わりは人間の熱心さや、人間の破壊によって早められるものでもありません。これらは「産みの苦しみの初め」です。私たちはそのことを見る霊的な正しい目を持つことが求められています。
そのことを聖書は、いろいろな箇所で、「主の日は思いがけない時にくる」「目を覚ましていなさい」、また「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と言って、再臨には神様の時があり、約束が遅くなっているのではない。むしろ神様は忍耐をして、神の国が伝えられ、人々が悔い改めに進むことを望んでおられるとも教えられています。
ですから私たちは、どんなことが起こっても惑わされてはいけません。ただひたすら神様を信じ、神様に従いなさい、と教えられています。
そして、私たちは神様の前に立つ準備をいつもしていることです。それは、この世にいる間、神様のお会いし続けるということです。毎週の礼拝において、日々の信仰生活において、みことばを読み、祈りをささげるという生活の中で神様にお会いする。これが、私たちのイエス様を待つ歩みです。そのような中で、神の国に生きる確かないのちを得ることができるのです。
そのいのちが、私たちが信仰を持った時に与えられた永遠のいのち、新しいいのちです。そのいのちを確かに自分のものとして勝ち取ることができるのです。それが神様の約束です。
私たちの信仰は、神様が支え、神様が私たちを担ってくださるから、私たちは最後まで耐えることができ、そして確かに救われることができるのです。それは、忍耐が希望に変えられていくからです。
ローマ人への手紙5:2−5「2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。」
そのことを信じ、感謝して、これからも歩みたいと思います。
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