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2012年4月8日 主日礼拝説教
「賢い娘たち」(マタイの福音書25章1節〜13節)
先回は24章32節から世の終わりについて、またイエス・キリストの再臨と、それに対する備えなどを見てきました。それはいつのことかだれも知らないことであり、突然に来るということでした。それで、絶えず「目をさまし、用心して」いるということ、そのために私たちは「忠実な賢いしもべ」として歩むようにと教えられました。
イエス様は、そのことを3つのたとえ話を通して教えてくださいました。まず24章45節からの「忠実な思慮深いしもべと、悪いしもべ」でした。2つ目は、今日の「10人の娘」、あるいは「賢い娘と愚かな娘」と呼ばれるたとえ話です。3つ目は「タラントのたとえ」と呼ばれているものです。
1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
「十人の娘」は、10人が10人とも「ともしびを持って、花婿を出迎える」準備をしていました。結婚披露宴は夜に行われました。それで「ともしび」を用意しておく必要があったのでした。
ユダヤの結婚披露宴は、ほとんどが花婿の家で行われ、準備は花婿の父がしました。花婿は、花婿の友人の家か親族の家で身支度をしました。それから、花嫁と花嫁の友人である娘たちといっしょに披露宴会場である自分の家に行くため、花嫁の家に迎えに行きます。花婿、花嫁とそれぞれの友人たちは、にぎやかに「ともしび」を掲げて花婿の家に行くのでした。
ですから「ともしび」はランプのようなものではなく、棒に布を巻きつけ、火をつけるたいまつのようなものてあったかもしれません。消えそうになったら、油を補充していくのです。
イエス様は、このようにして行われる結婚披露宴で花嫁の友人である娘たちがどうであったかを通して、世の終わり、イエス様を迎える心構えを話されました。花嫁の友人の10人の娘たちのうち、「五人は愚かで、五人は賢かった」と言われます。なぜ愚かだったのでしょうか。
3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
10人はみな結婚披露宴の会場に行くために、ともしびを用意していました。夜になり、それぞれがともしびに火をつけて、今か今かと待っていました。それは10人とも同じでしたが、愚かな娘たちはそんなに遅くならないだろうと思って、予備の油を用意していなかったのでした。
5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
花婿は、暗くなってすぐに来るはずだったのかもしれません。ところが、何らかの都合で花婿の来るのが遅れたのでした。「みな、うとうとして眠り始め」、夜も更け、夜中になってしまいました。そこに、先触れの花婿の友人から、「そら、花婿だ。迎えに出よ」、まもなく花婿がやって来るという知らせがありました。
7娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
花婿が間もなく到着しそうという声に、10人の娘たちは全員起き出し、ともしびに油を補充して、会場まで赤々と燃え続けるように準備をしました。
8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
到着予定時刻よりかなり遅くなったので、全員のともしびがかすかに燃えているような状態になっていました。賢い娘はさっそく油をさして、火を大きくしましたが、愚かな娘たちはそれができませんでした。予備の油を用意していなかったのでした。そこで「油を少し私たちに分けてください」と賢い娘たちに願い出ました。
9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
自分たちの分でちょうどなので、「あなたがたにはあげられません。それよりも店に行って買ってきたらどうでしょうか」と賢い娘は答えました。花婿の家に行くための油であれば、夜中であっても、喜んで店を開け売ってくれたでしょう。
5人の愚かな娘たちは、他の娘たちから油を分けてもらえると思っていました。これは分けられるものではありませんでした。油は、それぞれが管理し、それぞれが補充し、蓄えておかなければならないものでした。だから、いざとなったら人にもらえばいい、また人に分けてあげられるだろう、ということはできなかったのでした。
油とは、ひとりひとりが神様の前にしっかりと持ち続けていなければならないものでした。
10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
愚かな娘たちは、どうしても油が必要だったので、間に合うと思って、あるいは遅れても会場に入れてもらえるだろうと思って、油を買いに走りました。その間に花婿が来てしまいました。花婿が来た時に家にいた賢い娘たちだけが、花嫁・花婿たちといっしょに披露宴会場に出かけ、会場に着くと、扉が閉められてしまいました。このあとは、だれも入れませんでした。戸が閉められたらもう入ることができなかったのでした。
11そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
ほどなくして、油を買いに行っていた娘たちが、ようやくの思いで披露宴会場に到着しました。時すでに遅し、扉が閉まり、式が始まっていました。「ご主人さま、ご主人さま」、開けてください。夜中まで待っていたのに、こんなことになるとは。私たちの席があるはずです。
しかし、主人の答えは冷たいものでした。
12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
これは「天の御国」のたとえでした。彼女たちは会場に、天の御国に入ることができませんでした。
13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
イエス様がいらっしゃってから、それから油を用意したのでは万事休すなのです。「だから、目をさましていなさい。」
しかし、このたとえでは、10人が10人とも眠ってしまいました。5人の賢い娘はが眠ってしまったことは問題にされず、10節の「用意のできていた」ことをほめられました。一時的に眠ることがあっても、とにかく「そら、花婿だ。迎えに出よ」と言われた時に、出迎えられる用意ができているかどうかでした。
「ともしび」は信仰であり、油とは信仰を持った時に与えられた聖霊と考えられます。眠くなったり、消えそうになってしまうかもしれませんが、絶えず油を用意しておくように(聖霊に満たされているように)と私たちに教えてくださったのでした。
今日はイースター、復活節を迎えました。私たちは、私たちの罪がイエス様の十字架の死、身代わりの死によって赦されたことを信じています。それが確かであることを、イエス様はご自身の復活を通して示してくださったのでした。
ローマ人への手紙10:9「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
イエス様が墓に葬られてから3日目、日曜日の朝です。マグダラのマリヤたち、女の弟子たち3人が、イエス様が葬られている墓に訪ねたところ、お墓が空になっていること、そして御使いからイエス様がよみがえったことを知らされました。マリヤからの知らせを聞いた弟子のペテロとヨハネはお墓に駆けつけ、何もないお墓を見ましたが、半信半疑でした。
その日曜日の夜のことです。弟子たちは、恐ろしさのあまり部屋に閉じこもっていました。イエス様は、復活を信じられずにいた弟子たちの前に現れました。みなは最初、霊を見ているのだと思いました。イエス様は、ご自分の体を触って確かめるように言われ、また食事をして霊の体でないことを示されました。もうだれも疑う者がありませんでした。
「イエス・キリストは死からよみがえられた。私はその復活の主をこの目で見たのだ。」弟子たちは、イエス様の十字架によって罪が赦され、永遠のいのち、天国に行けるのは確かなことだと自分のいのちをかけて伝えるようになったのです。
私たちは、イエス様の十字架を信じ、救われました。イエス様が死からよみがえったことによって、私たちの最後の敵である死からも解放してくださいました。今日も、復活の主イエス・キリストが私たちを招いてくださったことを覚え、イエス様がおいでになる時まで、ともしびと油をいつも用意して歩んでいきたいと思います。
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