ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年4月22日


2012年4月22日 主日礼拝説教
「小さい者たちにしたことの祝福」(マタイの福音書25章31節〜46節)

■はじめに

 25章には3つのたとえ話、「10人の娘のたとえ」「タラントのたとえ」そして今日の「羊と山羊のたとえ」が載っています。イエス様は、ご自分が再びおいでになった時どのようなことが起こるかを、「10人の娘のたとえ」と「タラントのたとえ」で、神の国に入れない人がいることをお話しくださいました。今日の「羊と山羊のたとえ」もそうであり、また最後の審判についても教えています。
 「羊と山羊のたとえ」は、善い行いをした人が神の国に入り、そうでない者が永遠の火に入ることを語っています。しかし聖書は、神の国に入ることができるのは善い行いのゆえでなく、イエス様の十字架が自分の罪の身代わりの死であり、イエス様の十字架が自分の罪のためであったことを信じれば、だれでも救われると教えています。そのことを覚えながら、今日のたとえを見ていきましょう。

■右側の羊たち

31人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 イエス様は再臨なさいました。イエス様は地上におられたとき、神の栄光の御姿を捨てて貧しい人の姿となられましたが、再びおいでになるときは、もともとあった神の栄光を帯びて、王としての座につかれます。

32そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、33羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 イエス様の前に全世界の人々が集められます。その時生きていた者も、すでに死んでいた者もよみがえって、イエス様の前に出るのです。イエス様はさばきの座に着座され、すべての国民をさばいて、それらを左と右に分けられます。
 ユダヤでは、羊と山羊はいっしょに放牧されますが、夜になると、山羊は寒さに弱いので、羊と分けられました。そのような情景が終わりの日のさばきの座で起こるのです。

34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 分け終わってから、王であるイエス様は、右の羊たちに神の国を相続するように言われます。「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」ということばから、私たち(ここでは羊たちですが)の救いは善い行いによるのではなく、まだ生まれない「世の初めから」から、神様が永遠のうちに選んでいてくださり、御国を受け継ぐようにしてくださったことがわかります。羊たちは、創造の始まりから御国を受け継ぐ者となるよう定められていたのでした。
 35節は、「なぜなら」ということばで始まり、その理由が6つ挙げられます。

  1. 「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え」
  2. 「わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ」
  3. 「わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」
  4. 「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え」
  5. 「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い」
  6. 「わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた」

 このような愛の働きに対してイエス様は賞賛されます。このような愛の働き、善いわざが挙げられたのは、神の国に入れる根拠を語ったのではなく、神の国の約束をいただいた者たちは、このようなことができたというその結果をほめてくださったのでした。神様に選ばれ、神の国に入ることができた者は、このような愛の働きをするように神様が導いてくださり、また御霊もそのように働いてくださるのです。
 神様が世の初めから私たちを救いに入れてくださっている恵みを感謝するときに、愛のわざは自然と結ばれていくのです。

■小さい者たちにしたこと

37すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。38いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。39また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

 しかしほめられた本人は、そのような行いをした覚えはありませんでした。「いつそのようなことをしましたか」とイエス様に問い返しています。彼にとっては当然のことであり、そのようなことが救いをもたらすとは考えていなかったからでした。しかも、それがイエス様に対して行ったこととは思えなかったのでした。それらはイエス様への感謝、当然の行いとして、あふれるように出てきたものでした。

40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 イエス様は「わたしの兄弟たちにしたのは、わたしにしたのです」と言って、それがイエス様ご自身にしたことであったと明かされました。兄弟とは、同じクリスチャンたちを指すと考えられます。初代教会のクリスチャンたちは極度に貧しかった者たちが多かったし、迫害にも直面していました。彼らの必要はイエス様の必要であったのでした。

■左側の山羊たち

41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 右側の羊グループのさばきが終わると、左側にいる山羊のグループのさばきに移り、イエス様から永遠の火の中に入るように宣告されます。

42おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、43わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 イエス様は、羊に言われたことばと全く反対のことを述べられます。悪を行ったからではなく、愛を行わなかったことを責められます。

44そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

 山羊は、37節からの羊が言ったことばを要約してイエス様に語ります。羊は「主よ。いつ、私たちは」と繰り返し、ていねいにイエス様に問いかけたのに、山羊はそっけなく「主よ。いつ、私たちは」は最初の1回だけであり、最後に「お世話をしなかったのでしょうか」と結びます。
 彼らはあまり小さい者たちへ熱心ではなかったことを暗示しています。「そんなことよりも、もっと大きなわざをしたのですが、それはご覧にならなかったのですか。」そのような弁解が聞こえてくるようです。

45すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』46こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 神様の最後のさばきが決定したのでした。

■私たちの歩みを見ていてくださる神様

 さて今日は第1に、神様によって救われた者はきよめの道、「聖潔に至る実」を結ぶ歩みをしていることを覚えたいと思います。こうして、ひとりひとりが愛の働き、善きわざを積んでいくのです。

ローマ人への手紙7:22−23「22今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 また2つ目に、イエス様は、私たちの歩みを見ていてくださっていることです。羊がそのようなことをいつしたのかわからないようなものでも、イエス様はしっかりと覚えていてくださっているのです。
 私たちの愛のわざは、祈りの場合もあるでしょう。それらを友人に、家族に理解されず、知られないことも多くあるかもしれません。感謝されず、報いられないかもしれません。しかし、イエス様はそれらすべてをご存じで、そのことを「わたしにしたこと」と言って受け止めてくださるのです。
 イエス様こそ、十字架を通して、一方的に私たちに愛を示してくださいました。イエス様に従って歩もうとしている私たちは、私たちの愛のわざをただイエス様にささげていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年4月22日