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2012年5月13日 主日礼拝説教
「最後の晩餐」(マタイの福音書26章26節〜29節)
最後の晩餐の席で、イエス様は「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と言われました。それは、イスカリオテ・ユダに対する最後のことば、悔い改めをうながすことばでした。しかし、ユダはイエス様の御思いを受け入れることなく、最後の晩餐の席から去っていったのでした。
ヨハネの福音書13:27、30「27彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」…30ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」
ユダが去った後、改めて過越の食事が続けられ、イエス様はこの食事の目的であった聖餐式制定のことばを語られます。
イエス様は3つのことばをお語りになりました。まず最初のことばです。
26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
イエス様はパンを取り上げ、神様に感謝をささげてからパンを裂き、このパンがご自分の体を表すと言われました。パンは弟子たちのために裂かれ、弟子たちのために犠牲となるイエス様ご自身を示していました。
過越とは、出エジプトの時、イスラエルの人たちは自分たちが殺される代わりに身代わりとして子羊を殺し、その血をかもいと門柱に塗りました。それによって、イスラエル人たちは神様のさばきから救われました。それを記念して、毎年、犠牲の子羊が殺されたのでした。
昔、子羊が殺されることによって、イスラエルの人たちが救われたように、この時、イエス様が十字架で殺されることによって、イスラエル人だけではなく、すべての人が救われるようにしてくださったのでした。
ですから、イエス様が子羊の肉を取り上げて言われたのではなく、パンを裂いて「これはわたしのからだです」と言われたのは、イエス様ご自身が子羊となって、いけにえの死、犠牲の死、身代わりの死を遂げることを意味していたのでした
ペテロの手紙第1、3:18「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
イエス様が語られた2つ目のことばです。
27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
パンは、裂かれることから「犠牲の死」「身代わりの死」という意味がありましたが、「流される血」には「罪が赦される」ことと、「契約の血」という2つの意味がありました。
罪が赦されるためには「血が流される」必要がありました。
レビ記17:11「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
イエス様がおいでになるまでは、神殿で動物が殺され、犠牲の血が祭壇に注がれてきました。それは、個人の罪、家族の罪、国家の罪の赦しのためでした。しかも繰り返し、日を定めて毎月、あるいは年に1回、犠牲がささげられたのでした。
しかしイエス様は、このとき、ただ1度の十字架によって流されるイエス様ご自身の血がそれにとって代えられると語られたのでした。
ヘブル人への手紙9:12−14「12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。13もし、やぎと雄牛の血を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
血は「新しい契約」結ぶために必要でした。モーセが神様から十戒を与えられたとき、神様は民と契約を結ばれました。モーセは子牛をいけにえとしてささげ、まず神様を示す祭壇に子牛の血を注ぎ、次いで「律法を守り行います」と答えた民にも血を注ぎかけました。これが「契約の血」でした。
出エジプト記24:8「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」
双方に血を注ぎかけることは、この契約を破った者は、このように血が流されることになる、その責任を負うという対等の関係を表すしるしでした。
イエス様と弟子たちとの契約は、これとは違う新しい契約でした。イエス様と弟子たちとの契約は、動物の血ではなくイエス様ご自身が流される血をもってでした。そして、血が注がれるのは、十字架上のイエス様だけでした。
これは、モーセの時の契約のような対等ではなく、一方的にイエス様だけが負ってくださり、それを弟子たちに与えてくださる恵みの契約でした。イスラエルと神様が結ばれた古い契約(旧約)が破棄され、新しいイスラエルの民(それは、イエス・キリストを救い主として信じる者たち、新しく建てられる教会)と、イエス様が新しい契約(新約)を結ばれました。しかもご自身の血によって、一方的に恵みによって結ばれると、イエス様は言われたのでした。
それはエレミヤ書31章に預言されていたことでした。
エレミヤ書31:31−33「31見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。32その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。33彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
イエス様が語られた3つ目のことばです。
29ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
まもなく十字架にかかろうとしているイエス様は、過越の食事がこれで最後になることを告げました。それは旧約の契約を示した過越の食事がこれで終わり、これからは新しい契約を示す聖餐式を、イエス様の十字架の死を記念して教会で行うようにとおっしゃったのでした。
イエス様が、御国で弟子たちと食事をするまではもう飲食はしないとは、イエス様が再び来られ、弟子たちが集められ、イエス様の御国でイエス様と食卓を囲む時をイエス様のほうでも待ち望んでいると言われたのです。
コリント人への手紙第1、11:26「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
私たちは聖餐を受けるごとにイエス様の身代わりの死を覚え、罪が赦されたこと、イエス様との新しい契約の中に入れられたことを感謝し、天国の希望を新たにするのです。
私たちがパンを食べ杯を飲み続けることは、キリストのからだ、キリストの血にあずかることであり、それらは私たちの魂を養う食べ物となり、私たちは恵みのうちに成長させられていくのです。
コリント人への手紙第1、10:16「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
そのような思いをもって、イエス様が定めてくださった聖餐式に毎月あずかりたいと思います。
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