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2012年6月10日 主日礼拝説教
「ペテロは激しく泣いた」(マタイの福音書26章69節〜75節)
前回は、ユダの手引きによって捕らえられたイエス様が、大祭司カヤパのもとで裁判を受け、神を汚した罪で死刑を宣告され、また議会がイエス様につばきを吐きかけ、こぶしでたいたりしたところまでを見ました。その時ペテロはどうしていたのか。イエス様の裁判を並行してペテロの様子が描かれているのが今日の個所です。
このペテロの失敗の記事は、4つの福音書すべてに載っている出来事です。福音書が書かれた当時、すでにペテロは教会の指導者として、皆から尊敬されていました。そのペテロがイエス様を知らないと3度も言ってしまいました。それは生涯忘れることのできない失敗でしたが、それでもペテロは赦され、教会の指導者として歩むことができたのでした。ペテロは、自分の罪とこの時に起こったイエス様の赦しと恵みを証し続けたのでした。
69ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
マルコ、ルカの福音書によると、この時たき火がたかれていました。過越の祭りの時期、3月末から4月上旬、エルサレムの夜は寒かったのです。ペテロは火にあたりながら、そしらぬ様子でイエス様の裁判の様子をうかがっていました。
ペテロはその夜、ゲツセマネでイエス様が祈っておられたとき眠り込んでしまい、イエス様に「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と言われ、またイエス様が捕まる時、剣で大祭司のしもべの耳を切り落としてしまいした。そのときもイエス様から「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われてしまったのです。
そんなペテロに、たき火にあたり、ほっとした時、不意打ちのような問いかけがありました。「女中のひとり」が「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね」と言ったのです。
暗いなかの、火にぼうっと照らし出されたペテロの顔でした。女中からのほんのささいな問いかけでした。女中は、この男がイエス様の一番弟子と言われている男ペテロだとは知らなかったでしょう。ところがペテロはとっさに否定してしまうのです。
70しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。71そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
恐ろしさ、恥ずかしさのためでしょうか。ペテロは「何を言っているのか、私にはわからない」と言って、火のない暗い入口のほうに出て行きました。
しばらくして、今度は「ほかの女中」から、「この人はナザレ人イエスといっしょでした」と言われてしまいます。これとて確信から出たことばでなく、軽い当て推量のことばでした。
72それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。
最初の軽いうそが、2回目は「誓って言った」とあるように、イエス様といっしょにいたことを否定してしまうのです。
そして3回目の問いです。
73しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。
ルカの福音書によると、2回目と3回目の間は「一時間」ほどたっていました。
ルカの福音書22:59「それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。」
ペテロにとっては、これでもう何も起こらない、大丈夫と思ったくらいの時間であったでしょう。またたき火の近くに寄ってきて、イエス様の裁判の成り行きを見守っていました。
そのとき、3度目はペテロのガリラヤなまりを証拠に、あなたがイエスといっしょであり、その仲間だったと言われるのです。
74すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
3回目の否定は、「のろいをかけて誓う」という最高の否定のことばを使ったのでした。それがうそなら自分は滅ぼされてもよい、という否定の仕方です。
考えてみれば、たといペテロがイエス様の弟子であったとわかったとしても、ペテロがつかまるわけではありませんでした。この大祭司に庭に入って来られたのは、ヨハネが大祭司の知り合いであったからでした。
ヨハネの福音書18:15−16「15シモン・ペテロともうひとりの弟子(ヨハネ)は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った。16しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れて入った。」
そのあと、ヨハネはペテロを残して出て行ったのでしょう。それで、門番の女には、ペテロがどういう男かわかっていたのでした。そうであっても、ペテロをユダヤ議会に突き出そうとしなかったでしょう。イエス様の弟子たちの存在など、だれも気にもとめていなかったのです。十字架刑の時も、十字架の下にヨハネをはじめ、女の弟子たちが立っていたのでした。
何も恐れなくてもよかったペテロは、最初の軽い否定から3度もイエス様を知らないと言うはめになってしまったのです。ペテロの否定と同時に、鶏の声が聞こえました。
75そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
ペテロは、鶏の鳴き声によってイエス様のおことばを思い出しました。その時です。ペテロの否定のことばが聞こえたかのように、イエス様がペテロを見つめられるのです。これは、ルカだけが記している情景です。
ルカの福音書22:60−62「60しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
ちょうど、大祭司カヤパの尋問が終わり、引き出されたところであったでしょう。自分だけは大丈夫だと思っていたペテロ、自分は挫折しない、失敗しないと思っていたペテロでした。ペテロの自信と優越感がこなごなに崩れてしまった瞬間でした。
そのときのイエス様のまなざしは、ペテロをあわれみ、ペテロを赦す、まなざしでした。それは、ペテロを愛し、どこまでも無限に赦してくださるイエス様のまなざしでした。ペテロは我に返り、自分の犯した罪を知り、悔いて激しく泣くのでした。「イエス様、赦してください。」ほんとうに赦していただける方に赦しを求めたのでした。
ペテロは、鶏の鳴く声を聞いたとき、イエス様の声を思い出すことができました。それは、イエス様がペテロを悔い改めに導くために、あらかじめ用意してくださった鶏の声であったのでした。そしてイエス様のまなざしでした。なんとペテロはイエス様に愛されていたことでしょうか。それによってペテロは、激しく泣いて悔い改めるという最高の悔い改めの機会を与えられたのでした。
コリント人への手紙第2、7:10「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
ペテロは鶏の声から、またイエス様のまなざしから、ペテロを選び愛してくださるイエス様のことばを思い出し、悔い改め、信仰を持ち続けることができたのでした。ペテロはイエス様に知られていました。ペテロはイエス様の救いに入れられていました。イエス様は、ペテロの罪のために十字架にかかることを良しとされたのでした。
イエス様の十字架は、すべての人の罪を赦し、救いに入れることができる十分な恵みを持っているものです。しかし救いは、すべての人に与えられるのはなく、ひとりひとりに与えられるのです。
私たちひとりひとりを知っておられる神様が、イエス様を信じるように導いてくださったのでした。神様は私たちを生まれる前から選び、いつまでも背負い、導いてくださるのです。
イザヤ書46:3−4「3胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。4あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
私たちも、内なる鶏の声を聞き、イエス様のまなざしをいただき、悔い改め、赦していただいた感謝をもって、これからも歩み続けたいと思います。
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